2019-01-01から1年間の記事一覧

平成最後の年=令和元年 想い出

2019年もあとわずか、今年を振り返った。 1月、恒例の秋山好古生誕祭が松山で行われる。東京から山下家、吉田から亀三郎翁を偲ぶ会が参加。生誕祭も今年が最後と出掛けた。帰りは予讃線で高松にゆく、四国山地の山々は雪を被っている。石鎚山、笹ヶ峰、東赤…

宮大工 二宮長六

恩師池本覺先生から三間史談会より「泉」に寄稿したエッセイが送られてきた。「三間街道をゆく―宮大工棟梁 二宮長六を追うー」というテーマだった。 ブロガーが9月末に訪れた「清良神社」の拝殿の正面・鶴の彫り物が長六の作という。ご案内の安岡氏が言われ…

天を仰いで (坂村眞民先生箴言詩集)

入院中に坂村眞民記念館の西澤館長より本が届いた。 箴言(しんげん)とは戒めの言葉と書いている。 致知出版社から発行されたばかりの詩集だった。 40歳から90歳までの詩87編が収録されている。 ブロガーの母校吉田高校で教鞭を執っていた頃58歳の…

吉田名所大観(昭和19年)立間、喜佐方、玉津の絵

この辺りが昔の宇和郡中心地だった。吉田という地名になったのは江戸時代、宇和島藩主伊達秀宗が五男の宗純に3万石を分知したのが始まり。宗純は、立間川、河内川の河口に生い茂る葦の原を、周りの山を削って埋め立てた。町人町と家中町という町割りはその時…

吉田名所大観(昭和19年)小林朝治の56景画帖

小林朝治は昭和2年信州須坂からやって来た。吉田病院眼科医長として昭和6年退任するまで吉田名所56景を版画に遺した。 吉田名所大観が出る13年前に朝治は「吉田風物画帖」を出版した。朝治はその絵にモダンな詩を添えた。 例えば「幼稚園」 お門は おてんと…

吉田名所大観(昭和19年)家中町の絵

町人町と家中町を分けているのが、横堀川。そこに架かるのが櫻橋と三輪橋である。川の傍に警察署、町役場、朝家罐詰、裁判所とあるが、裁判所があった事は知らない。罐詰工場も愛媛食品と記憶するが、サザエの殻が山盛りに積んでいたことを思い出す。簡野図…

吉田名所大観(昭和19年)吉田港、町人町の絵

5月の同級会に幹事が古い資料を配った。この「吉田名所大観」は吉田町商工会が作った観光鳥瞰図で昭和19年頃の吉田町と思われる。吉田港の港湾設備、船舶が凄い。桟橋が二つある、2本デリックの貨物船が2,3隻が着桟しているのが見える。汽船待合所があるの…

著書『吉田三傑2019』で感じたこと

今日は令和元年10月22日「即位礼正殿の儀」が行われ国民の祝日である。即位に伴う祝賀パレードは、台風19号の被害に配慮し延期された。 早いもので、令和になって半年になろうとしている。 令和の発足に際し5月1日『吉田三傑2019』~吉田町の歴史と文化~を…

土居清良の故郷「三間町」を訪ねる(3)

三間の英雄 土居清良ムービー 清良神社、土居清良廟、龍泉禅寺 三間町土居中の龍泉禅寺に到着し、傍の高台にある土居清良廟を訪ねた。安岡賢司氏にまた案内してもらった。苔むす坂道を少し登ると真正面に清良公の居城「大森城」が望める。海抜320m程の山の上…

土居清良の故郷「三間町」を訪ねる(2)

旧庄屋 毛利家 池本先生宅を後にして三間町是能の「旧庄屋 毛利家」に向かう。パンフレットには15歳で庄屋になった初代甚蔵が七個谷と呼ばれている谷に12年間の歳月をかけて屋敷を造ったとある。 母屋は宝暦3年(1753)に建てられた。4代源蔵は長屋の煉瓦に…

土居清良の故郷「三間町」を訪ねる(1)

恩師・池本先生 9月28日、法事で郷里吉田町に帰省する。 30日は先ず、宇和島市役所に行き「吉田三傑2019」売上金一部と白井市桜台の高齢者クラブ有志からの義援金を岡原文彰市長に手渡した。翌日の愛媛新聞にはこの模様が、西日本豪雨情報の欄に載っていた。…

戦国武将・土居清良という男 17(完)

8月6日第1回目のブログアップから始まった「土居清良」伝は漸く終わった。 『清良記』は、土居清良没(寛永6年【1629】)の約20年後、土居一族の末裔で三島神社元神官・土居水也という人が、長い歳月をかけ全30巻を完成させたと伝えられている。 本書「土居…

戦国武将・土居清良という男 16

法戦の城 信長に通じ阿波、讃岐を侵した元親は、大挙来襲すること天正7年より十数回、陰惨なる雲は再び宇和海の上を蔽う。元親清良と兵を交える事数十回、悉く破れ術つき、密かに土居の家中に内通を試みたが誰一人応ずる者無し。天正9年橘合戦で敵将多くを討…

戦国武将・土居清良という男 15

不義を許さず 天正2年中、清良は長宗我部元親の宇和郡侵攻に対し幾多の戦いを強いられたが、総て清良の予言が的中し敵を退けた。中でも近畿まで名を轟かせた「土居七口の槍」という合戦は、1日12度の激戦があり、敵の大将山内外記以下実に785人を討った。 元…

戦国武将・土居清良という男 14

法華津一族 ブロガーの出身地は宇和島市吉田町本町であるが、母の実家は吉田町玉津だった。幼少時、法花津(法華津)の浜で海水浴をしたことを覚えている。その浜の背後の小高い山に法華津城があった事は当時知る由もない。 自著『トランパー』『吉田三傑201…

戦国武将・土居清良という男 13

民と倶に飢えん 元亀3年、関西地方は稀なる大凶年だった。清良は宗案と策を立て、直ちに城中の兵500人を出して百姓に加勢し11月初めまで麦を蒔き終わった。清良は土居左兵衛に領米9割方を分けよと命じたが、「来年は元親攻め来たらん、籠城の用意なくてはか…

戦国武将・土居清良という男 12

一条の恩に報ゆ 本書には、 元親は一条の股肱、久札城主・佐竹信濃守を取り込まんとしたが、尊家に発覚し 起請文を書き人質を出した。その後人質に密計を授けて次第に旗下を籠絡して謀反を諮った。遂に天正元年11月大挙して尊家を欺き30余人を下田より船に投…

戦国武将・土居清良という男 11

清良、西園寺・一條の和議を調う 永禄11年4月大友軍1000余騎来襲。7月一條来襲。永禄12年4月大友一條呼応して来襲。元亀元年(1570)大友一條、御荘勸修寺を海陸より攻める。清良はこれに加勢、西園寺公広に出陣を乞うが援軍来ず。敵は諸城陥り放火して三間…

戦国武将・土居清良という男 10

永禄九年(1567)八月、今度は一条が来襲、清良敢えて応戦せず悠々と日を暮らしていたが、西園寺実充再三の出兵の命にやむを得ず250余騎で700騎を散々に追い返した。実充は度々の功労で清良に一族滅亡の石城を与えた。すでにこの頃は土佐、豊後共に土居の楓…

戦国武将・土居清良という男 9

桜井武蔵に聴く 清良は勝ち戦の中で不覚を恥じ、西光寺に籠ていた桜井武蔵を呼び、詮議した。武蔵から見れば若き土居一党は、強きに過ぎた嫌いがあったという。 武蔵は甲州の軍師山本勘助と同学、清良は参謀として用いた。屡々軍功をたて、後に毛利氏加勢の…

戦国武将・土居清良という男 8

清良起つ 一条が清良に帰城を許したことは虎を野に放つが如きであった。 西園寺の恩は重い、しかし西園寺やその旗下の諸城主は大友に属してなすすべがない。土佐は長宗我部元親がやがて一条を滅ぼさん。今のうちに人質の松女を取り返さなければならない。 永…

戦国武将・土居清良という男 7

大森帰城 清良は今、石城山頂に佇んでいる。「松風に秋をば告ぐる声ありてその憂きことは問へど答えず」静かに彼の口ずさむのが漏れ聞こえた。傍らの鉄首座、六郎兵衛の眼が濡れて夕闇の中に光っている。石城陥落から2カ年、あの炎天を焦がした状も、剣戟雄…

幻の空母「信濃」と工業塩基地・三ツ子島

NHKドキメンタリーで幻の巨大空母“信濃”~乗組員が語る 大和型“不沈艦”の悲劇~という番組があった。 何気なく見ていると最後の章で三ツ子島が出て来た。テレビに島の航空写真が現れ「これは塩の基地、三ツ子島じゃないか?」と驚いた。 6万7千トンの世界…

戦国武将・土居清良という男 6

作家・司馬遼太郎の「街道をゆく」14~南伊予・西土佐の道に~は、吉田、宇和島を経て土佐中村に至る紀行文がある。 つまり宇和島から松丸街道を通り土佐中村までゆくのだが、坂本竜馬が若い頃この道を辿って宇和島城下に来たことがある。下級藩士の土居通夫…

戦国武将・土居清良という男 5

石城陥落(3) 大加美夫人は土居一族再起の為、孫・清良を土佐幡多郡に落とすことを決めた。伴の有力武将4名に対し、幡多土居近江守を頼り、小姓衆を導いて清良を援けと諭し、人質の料として清貞の娘お松を託した。 本書には、 清良「今度一門を捨てて逃げ、…

ニューヨークでゴルフ

BSNHKより引用 PGAプレーオフをテレビ観戦、松山英樹を見ようと5時に起きた。何と舞台はニューヨーク、テレビに自由の女神が映りマンハッタンに向けてショットしているシーンだった。 リバティナショナルゴルフコースはハドソン川、イーストリバーが合流する…

戦国武将・土居清良という男 4

石城陥落(2) 清晴討たれ石城は桐の一葉先ず落つるの感があった、西園寺実充は密かに石城援軍の150余騎を呼び返さんとした。これを知った早雲は厚くもてなし黒瀬に送り返した。 土居家の居城大森城を死守していた土居備中守清貞は、石城の急を聞いて(我等…

戦国武将・土居清良という男 3

石城陥落(1) 我が郷土の歴史を戦国時代まで遡ると、南海道の伊予には有力豪族の河野氏が松山道後に湯築城を築きこの辺りを治めていた。道後平野の稲作など豊富な食糧を守るため、瀬戸内の有力水軍も傘下にあった。喜多郡には宇都宮氏、宇和郡には西園寺氏…

戦国武将・土居清良という男 2

「戦国 伊予の聖雄 土居清良」は平成29年12月発行で、発行者は(ひの心を継ぐ会)三浦夏南氏である。今後はこの本を本書と称して展開したい。 本書には(序)に続いて(その一族)を記している。 11代土居清宗(早雲)は14人の子供がいた。長男12代家嗣の清…

戦国武将・土居清良という男 1

ブロガーの郷里吉田町に石城山、犬尾城山という小高い山がある。 かつて伊達吉田藩の町造りに、それらの山を削って葦の湿地を埋め立てたので、急峻な形状をしている。 子供の頃、町の中心地「横堀」から犬尾城山を見上げて育った。たまに頂上まで登った事が…