戦国武将・土居清良という男 3

石城陥落(1

 

 我が郷土の歴史を戦国時代まで遡ると、南海道の伊予には有力豪族の河野氏松山道後に湯築城を築きこの辺りを治めていた。道後平野の稲作など豊富な食糧を守るため、瀬戸内の有力水軍も傘下にあった。喜多郡には宇都宮氏、宇和郡には西園寺氏が勢力を築いていた。伊予という所は、地政学的には海陸問わず周りに敵味方が混在していた。つまり、瀬戸内海を挟み中国地方の大内氏、毛利氏や豊後水道の向こう豊後国の大友氏は船団を組んで押し寄せた。四国山地の南からは一条氏、その後長宗我部氏が攻めて来た。

その様な時代背景で、宇和盆地に本拠を構える黒瀬城の西園寺実充は、豊後大友義鎮(宗麟)の侵攻におびえていた。

 

本書によると、

 天文15年(1546)2月土居清宗は63歳で入道、早雲と号し、後を嫡子清貞に譲った。

これに驚いた西園寺実充は、早雲に立間、立間尻、喜佐方4百貫を知行し、石城の城主たらんことを乞うた。早雲はもはや老骨、用に立たんと固辞したが、石城は度重なる大友軍を迎え撃つ要所、早雲は然らば「唯今にても敵の来たらんことははかり知られず」と大森城を立ち石城に入城した。

 同年5月、大友軍が押し寄せてきたが夜襲して撃破、さらに7月大友方の臼杵、戸次、坂本、田原などの大将が来襲、三間郷に入ったが、その隙に八郎・宗真は敵番船の武将を打ち果たし軍船を打ち壊して引き揚げた。これに驚いた数千の敵は色を変え、石城に雪崩れかかったが、早雲は応戦せず夜を待って十三男為友不動之助に得意の夜討ちをかけさせこれを撃破した。その後、永禄元年(1558)まで5、6回押し寄せてきたが何れも押し返した。

 連敗を憤った大友義鎮は永禄元年6月、今度は一挙に臼杵、別次などの将に8千騎をつけ宇和郡に押し寄せた。狼狽した西園寺実充は早雲に加勢を乞うた。土居一族は地の利を生かし奮戦、早雲の息子共は敵陣に切り込み、敵はことごとく豊後に引き返した。

 永禄3年8月、遂に大友義鎮入道宗麟は、自ら総大将となって九州7カ国の軍兵3万5千騎で宇和海に乗り込んだ。宗麟は日振島で全軍を指揮した。

 土居一族は多勢に無勢も、心ゆくばかりの戦いをせんと勇み立った。志摩守清晴は200余騎で象潟西ケ森城に本陣を張った。五郎清象は竹ヶ尾搦手を固める。

大手は敵300余騎を射落とし、搦手は敵をひきつけ厳石を落とした。伏兵は闇に乗じて敵を散々撃退した。

 宗麟は石城攻めを不利と判断し宇和郡内の諸城に向かい城を包囲し民家を焼いた。土居降伏したとの流言を放ち諸城相次いで人質を出し降伏した。

 9月大友軍の大半が石城に集合し十重二十重に囲んだ。早雲は櫓の上よりこれを見下ろし清家に命じ打って出てすぐに引き揚げさせた。敵兵は城壁に寄せ来るが、岩石材木を落とし鉄砲弓矢を射かけた。大友勢は麓に雪崩れ引く中、家臣を討たれた菊地備後守、国崎主計らは取って返し壁に取りつき狭間より槍を突き入れ侵入を試みた。

 土居軍は予て用意の2、300石余の炭火を投じると東の峰は猛火に包まれ焦熱地獄と化した。これにより菊地備後の諸将を始め敵兵数多焼死した。城兵は楯を叩いて快哉を叫ぶ中、一筋の小矢が狭間を潜って志摩守清晴の胸板に当たり喉を射た、夜明け頃に危篤に落ちる。矢には国崎但馬と朱書されている。父を討たれた太郎治清、次郎久清、15歳の三郎清良が駈けださんとするが、早雲はこれを止め宗真、宗信、為友を加勢させ国崎の陣を襲わせた。清良兄弟は叔父たちの加勢を受け遂に但馬父子3人の首を取り父清晴に見参した。清晴曰く、

「大将たるもの狭間より入りたる矢にて傷つけるは天の責なり。国崎には恨むところなし」と遂に52歳を最期として石城の露と消えた。

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大友軍は吉田湾から犬尾城、石城を襲った。