戦国武将・土居清良という男 6

 作家・司馬遼太郎の「街道をゆく」14~南伊予・西土佐の道に~は、吉田、宇和島を経て土佐中村に至る紀行文がある。

つまり宇和島から松丸街道を通り土佐中村までゆくのだが、坂本竜馬が若い頃この道を辿って宇和島城下に来たことがある。下級藩士の土居通夫(大阪通天閣生みの親)は竜馬から脱藩を勧められたという。この土居の遺談から司馬は竜馬が宇和島に足をとどめたことを知った。(この一件は『トランパー』に記している)明治になって佐賀の乱に敗れた江藤新平は、逆に宇和島から土佐に侵入したという顛末も書いている。

 ページをめくると松丸と土佐の項に、土佐一條氏時代の土佐人の侵略の事に触れている。侵略目的はその初期はじつに即物的だった。米や麦の食糧を奪りに来るのである。さらに『清良記』にも言及しており、この当時の伊予側の記録がある。それによると、永禄11年(1568)土佐幡多郡の農民、山民のあつまりである上山党、下山党が、松野方面の出来秋をねらい、7月に侵略をくわだてる。

要するに、不作続きの農民が飢えを凌ぐため、土佐に流れて来た京都の食いつめ公家一條家の侍を借りて伊予へ侵入し米麦を奪って冬春までの食糧にすると云うのである。伊予方も防戦する。遠く伊予宇和にいる京下りの公家西園寺氏にたのみ、大将を貸してもらうのである。大将に指名されたのが三間郷宮野下付近を領地とする土居清良で勢力も大きく、賢明な大将として知られていた。かれがこの防戦の総指揮を取り、土佐勢を撃退して「今年も作は損をせず」にすんだが、というめでたい結末になる。と記されている。

 因みに松野・松丸が明治村(あけはるむら)と呼ばれていた頃、吉田三傑の清家吉次郎明治31年2月に北宇和郡明治尋常高等小学校訓導、校長で2年間奉職に就いている。

 

雌伏三年

 さて、今や天下に孤独となった15歳の清良は予土目黒山中の夜中、深山の月に啼く哀猿の声を聞いて眠れなかった。鬼ケ城山中目黒に留まる事十数日、意を決して一同は近江守を訪ね、もし許さざれば差し違えて死するのみと出発した。

 だが、土居近江守は喜び、自邸に迎えて厚くもてなした。その悲運を慰め尊家に言上した所、尊家は武名高き土居一族が来たり身を投じたと聞き、大いに喜び高島百貫の地を与えた。宇和郡は大加美夫人の推量とおり、大友の命で一條家の支配に属した。

 土居近江守家忠は心魂を尽くして清良を教育した。自ら四書を講じ、軍書で武将としての兵法を学ばせた。清良及び少姓たちは弓馬により心身を練磨し血の滴るような真剣な修行を行い、やがて雲を呼ぶべき恐るべき力が生長しつつあった。

 清良16歳の時、一條家の狩りがあり土居勢も加わった。2頭の大鹿を尊家近習衆が50発も弓鉄砲を放ったが的中せず、土居勢がこれを射とめた。一條家の侍が初矢は我なりと大声叱咤して奪い帰らんとしたが、調べの結果土居三蔵の一矢を負うのみであった。然しながら一匹は一條勢が奪い取って引き上げる。土居衆は浪人の浅ましさを嘆ずるが、清良は小高き岩頭に立って

「深山木のその梢とも見えざりし桜は花にあらわれにけり」

と古歌を口ずさみにっこり笑って衆を諭した。

本書にはまだ2,3のエピソードが書かれているが、大志を抱く清良は眼前の小事に拘らず、内に力を長養しながら成すべき事を成しつつ静かに秋の来るを待った。

とある。