2020-01-01から1年間の記事一覧

ブログ終了

気ままにブログを書いてきましたが コロナ対策の為、暫し休みとします。 長きにわたりご芳情ありがとうございました。 The End 追記 本ブログ再開まで下記のブログを 見て頂ければ幸甚です トランパーいいかも

西国の伊達騒動 15

吉田藩紙騒動 (8)武左衛門 近世において百姓一揆の発生件数は、全国で三二〇〇件あったが、伊予国(えひめ)は一五五件あり第四位の上位である。中でも南予地方は宇和島藩六五、大洲藩一九、吉田藩一五と何故か集中して多い。 インターネットを検索してい…

西国の伊達騒動 14

吉田藩紙騒動 (7)一揆の始まり 紙方役所の岡っ引き、提灯屋栄蔵は新法の下で、やりたい放題だった。その手下に遍路や乞食のように変装させ、百姓共の家へ改めと言って押し入り、どさくさに紛れて盗みを働いた。 作之進は、昨年十二月二十一日に延川村で、…

西国の伊達騒動 13

吉田藩紙騒動 (6)百姓願い事 十一月の御仕法が発令されて以降、十二月四日に紙方役所は、紙の運搬方法など細則を出した。さらに楮の値段を決め、役人が出向いたときの賄事を定めた。 だが、百姓衆を激怒させたのは、役所が御小人組の栄蔵など数名を用い、…

西国の伊達騒動 12

吉田藩紙騒動(5)紙方役所 紙漉き百姓に突然、悪しき報せがあった。 寛政四年十一月十五日、藩は紙方役所を置き「紙方御仕方替」つまり密売などの取締りを厳しくする新法を作り、藩は財政難を乗り切ろうとした。 これを知った作之進は驚き、御郡奉行衆へ …

西国の伊達騒動 11

吉田藩紙騒動(4)商人と百姓 作之進は、法華津屋が紙の商売を止めたいという、手前勝手な言い分に腹が立っていた。 御用商人は、藩や、大阪の豪商らから借りている楮元銀の資金を、返済できなくなった。それは、近年、紙の出来が悪く、紙漉き百姓衆からの…

西国の伊達騒動 10

吉田藩紙騒動(3)法華津屋 さて、話を紙騒動に戻すと、作之進が活躍する吉田騒動は、江戸後期にかかる頃であった。 江戸初期、伊予吉田藩が発足する前、寛永十年(一六三三)には鎖国令が敷かれ、それ以降、外様大名は参勤交代の制度化で、莫大な経費の捻…

西国の伊達騒動 9

三代吉田藩主と松の廊下事件 元禄十四年(一七〇一)三月十四日、江戸城松の廊下で起きた事件は、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が高家・吉良上野介義央に「此間の遺恨覚えたるか」と刃傷に及んだ椿事である。 これは西国伊達藩の騒動ではないが、この事件に伊予…

西国の伊達騒動 8

山家清兵衛(やんべせいべい)事件 四国の三大お参り所は、四国八十八カ所参り、金比羅参り、和霊さん参りと言われている。 宇和島市の「和霊神社」は、伊達宇和島藩・家老の山家清兵衛を祀っている。 西国の伊達二藩には様々な事件があったが、宇和島藩の創成…

西国の伊達騒動 7

山田騒動 吉田藩紙騒動は、土佐藩との国境が発祥地である。 吉田藩の発足後に起こった大事件も、元はと言えば土佐者が絡んでいる。 それは、天和三年(一六八三)の「山田騒動」で、元土佐藩士が吉田藩を牛耳ろうとする野望から発したものだった。 この事件…

西国の伊達騒動 6

吉田藩紙騒動(2)百姓一揆前夜 広見川上流の山間部の百姓は、紙の原料である「楮(こうぞ)」の木を栽培して生活の糧にしている。山奥には、マタギ、樵(きこり)、炭焼きも暮らしている。 百姓の中には、楮の木や畑を荒らす猪、鹿など狩猟に使う四匁の鉄砲を…

西国の伊達騒動 5

吉田藩紙騒動(1)百姓一揆前夜 さて、寛政四年に話しは戻る。 鈴木作之進は居酒屋「宮長」で酒を呑みながら七年前の式部騒動を思い出していた。 今度の騒ぎも百姓たちの不平不満が根柢にあるのではと、心に引っかかるものがあった。 しかし、作之進がその…

西国の伊達騒動 4

天明の土居式部騒動(2) 翌十日、作之進は元宗村権現谷の満徳寺へ行って、村の様子を聞いた所、この村は至って静かである。 作之進は更に、兼近村辺りまで足を延ばし、方々聞き回ったが詳しい事は分からなかった。元宗村へ戻り庄屋所で庄屋・彦之進と夜遅…

西国の伊達騒動 3

天明の土居式部騒動(1) これからは小説風に……、 寛政四年(一七九二)の冬は寒い日が続いた。師走で町人町の本町、魚棚界隈は賑わっていた。 鈴木作之進は、横堀の居酒屋「宮長」で熱燗をちびりちびりとやっていた。中見役の作之進は、吉田藩の領内を見廻…

西国の伊達騒動  2

伊予吉田藩の起こり 西国もう一つの伊達家、伊予吉田藩は、宇和島藩初代藩主の伊達秀宗が、五男宗純に三万石を分知したのが始まりである。 宇和島に入部して四十年が過ぎた明暦三年(一六五七)歳老いた秀宗は、徳川幕府御朱印のもと、溺愛する息子宗純に宇…

西国の伊達騒動 1

(はじめに) ブロガーの故郷(愛媛県宇和島市)には、伊達宇和島藩と伊達伊予吉田藩の家老を祭神とした神社がある。 両藩二人の家老は、お家騒動で非業の死を遂げたが、今でも「和霊神社」「安藤神社」として郷里の人々から崇められている。 我がふるさと伊…

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(8)最終回

明月は波に沈まず(昭和16年7月1日) 亀三郎翁は(若き人の為に)と題し、昭和15年を中心に口述しているが、最後の章が、昭和16年7月1日となっている。 時代は太平洋戦争の直前で、6月には汪兆銘(精衛)が来日し、高輪の山下邸にも来て政府要人を交えて会…

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(7)

慌ただしかった此の一年 (昭和15年12月21、24日) 亀三郎翁は慌ただしい昭和15年を辿っていた。2月には台湾へ旅行し、3月末に吉田町に帰省、7月から9月まで軽井沢に移住し、10月に入って上海、南京を旅した。東京には150日しかいなかったが、朝から晩まで電…

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(6)

社員の採用方法(昭和15年8月28日) 亀三郎翁は、明治28年頃、伊藤好三郎、中村定安を最初の小僧として雇った。彼らはその後、山下鉱業の取締役になった。それから窪田操、林武平、大藤友松を採り、船をやるようになって、竹原宗太郎、鋳谷正輔、玉井周吉等…

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(5)

夏は炎暑と闘ふべし(昭和15年8月3日) 亀三郎翁は、冬は熱海で寒さを避け、夏は有馬または軽井沢の避暑地で過ごした。だが、決して働き盛りの人のすることではないという、翁は年老いたこともあるが、避寒を覚え避暑を味わってから、寒暑に耐える抵抗力が非…

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(4)

人のふり見て(昭和15年12月20日) 人のふり見て我がふり直せ、この諺は娘子に対してその親が言ったことから生まれたと亀三郎翁はいう。 娘の友達の着物の着方、帯の締め方、髪型を見て、自分の身を振り返って見よ、という事。翁は、これは誠に意味深長で、…

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(3)

仰向けの唾(昭和15年12月9日) 亀三郎翁は、天に唾する行為を戒めている。翁は、若き人に向ってあえて当たり前の話を老婆心で語っている。 多くの兄弟がいる家庭で、兄弟の一人が自分の兄弟の欠点を隣の家族に話して、自分だけ好い子になろうと思っても逆に…

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(2)

内智と外智の説(昭和15年9月27日) 亀三郎翁は、頭の良し悪しについて一家言を持っている。 頭が好いということは、知識に富んでいる事で、本当に頭が好いという事とはチョット違うのではと仰る。 つまり知識は専門家に聞けば得られるもの。電気の事は電気…

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(1)

最近、山下亀三郎の評伝を頼まれ、『トランパー』執筆以来いろいろ調べていた。新たな情報も入手したが、この際、自伝「沈みつ浮きつ」を再検証した。 山下亀三郎の口述本は、天、地の2編で構成されており、天の巻には(若き人の為に)というジャンルがある…

謹賀新年 令和二年(2020)

新年あけましておめでとうございます 今年は子年で、干支の始まり心機一転です。 東京五輪・パラリンピックの記念すべき年になりました。 今年は、田舎の「吉田三傑」に因んで何を書込むか? 昨年暮れに、中学の同級生から久しぶりに電話があった。 地元新聞…