2020-02-01から1ヶ月間の記事一覧

西国の伊達騒動 5

吉田藩紙騒動(1)百姓一揆前夜 さて、寛政四年に話しは戻る。 鈴木作之進は居酒屋「宮長」で酒を呑みながら七年前の式部騒動を思い出していた。 今度の騒ぎも百姓たちの不平不満が根柢にあるのではと、心に引っかかるものがあった。 しかし、作之進がその…

西国の伊達騒動 4

天明の土居式部騒動(2) 翌十日、作之進は元宗村権現谷の満徳寺へ行って、村の様子を聞いた所、この村は至って静かである。 作之進は更に、兼近村辺りまで足を延ばし、方々聞き回ったが詳しい事は分からなかった。元宗村へ戻り庄屋所で庄屋・彦之進と夜遅…

西国の伊達騒動 3

天明の土居式部騒動(1) これからは小説風に……、 寛政四年(一七九二)の冬は寒い日が続いた。師走で町人町の本町、魚棚界隈は賑わっていた。 鈴木作之進は、横堀の居酒屋「宮長」で熱燗をちびりちびりとやっていた。中見役の作之進は、吉田藩の領内を見廻…

西国の伊達騒動  2

伊予吉田藩の起こり 西国もう一つの伊達家、伊予吉田藩は、宇和島藩初代藩主の伊達秀宗が、五男宗純に三万石を分知したのが始まりである。 宇和島に入部して四十年が過ぎた明暦三年(一六五七)歳老いた秀宗は、徳川幕府御朱印のもと、溺愛する息子宗純に宇…

西国の伊達騒動 1

(はじめに) ブロガーの故郷(愛媛県宇和島市)には、伊達宇和島藩と伊達伊予吉田藩の家老を祭神とした神社がある。 両藩二人の家老は、お家騒動で非業の死を遂げたが、今でも「和霊神社」「安藤神社」として郷里の人々から崇められている。 我がふるさと伊…

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(8)最終回

明月は波に沈まず(昭和16年7月1日) 亀三郎翁は(若き人の為に)と題し、昭和15年を中心に口述しているが、最後の章が、昭和16年7月1日となっている。 時代は太平洋戦争の直前で、6月には汪兆銘(精衛)が来日し、高輪の山下邸にも来て政府要人を交えて会…

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(7)

慌ただしかった此の一年 (昭和15年12月21、24日) 亀三郎翁は慌ただしい昭和15年を辿っていた。2月には台湾へ旅行し、3月末に吉田町に帰省、7月から9月まで軽井沢に移住し、10月に入って上海、南京を旅した。東京には150日しかいなかったが、朝から晩まで電…

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(6)

社員の採用方法(昭和15年8月28日) 亀三郎翁は、明治28年頃、伊藤好三郎、中村定安を最初の小僧として雇った。彼らはその後、山下鉱業の取締役になった。それから窪田操、林武平、大藤友松を採り、船をやるようになって、竹原宗太郎、鋳谷正輔、玉井周吉等…

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(5)

夏は炎暑と闘ふべし(昭和15年8月3日) 亀三郎翁は、冬は熱海で寒さを避け、夏は有馬または軽井沢の避暑地で過ごした。だが、決して働き盛りの人のすることではないという、翁は年老いたこともあるが、避寒を覚え避暑を味わってから、寒暑に耐える抵抗力が非…

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(4)

人のふり見て(昭和15年12月20日) 人のふり見て我がふり直せ、この諺は娘子に対してその親が言ったことから生まれたと亀三郎翁はいう。 娘の友達の着物の着方、帯の締め方、髪型を見て、自分の身を振り返って見よ、という事。翁は、これは誠に意味深長で、…

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(3)

仰向けの唾(昭和15年12月9日) 亀三郎翁は、天に唾する行為を戒めている。翁は、若き人に向ってあえて当たり前の話を老婆心で語っている。 多くの兄弟がいる家庭で、兄弟の一人が自分の兄弟の欠点を隣の家族に話して、自分だけ好い子になろうと思っても逆に…

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(2)

内智と外智の説(昭和15年9月27日) 亀三郎翁は、頭の良し悪しについて一家言を持っている。 頭が好いということは、知識に富んでいる事で、本当に頭が好いという事とはチョット違うのではと仰る。 つまり知識は専門家に聞けば得られるもの。電気の事は電気…

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(1)

最近、山下亀三郎の評伝を頼まれ、『トランパー』執筆以来いろいろ調べていた。新たな情報も入手したが、この際、自伝「沈みつ浮きつ」を再検証した。 山下亀三郎の口述本は、天、地の2編で構成されており、天の巻には(若き人の為に)というジャンルがある…