ブログ本の出版&ブログ休止

これまで愛媛県宇和島市吉田町の「吉田三傑」などの偉人伝や、郷里の歴史・文化をブログに書いてきました。 ブロガーは、今年9月『航跡 三篇』と題して自費出版(非売品)しました。内容は、ブログにアップした「がいな男」、「アイクと呼ばれた男」とkindle…

アイクと呼ばれた男(35/最終回)終焉

浜田喜佐雄の寿像制作者は伊藤五百亀氏、題字は増原長官。 吾が胸像を見て浜田は、(地下の父母いか宜ふや桜花の春)と詠んだ。 ブロガーは平成26年9月『トランパー』の取材で40年ぶりに浜田翁の銅像を訪れた。昔、昭和50年に浜田家を訪れた時は、浜田翁が浜…

アイクと呼ばれた男 (32)田中正之輔急逝(33)三光事件(34)浜田社長激昂

「田中正之輔急逝」 鎌倉円覚寺の朝比奈宗源管長は「田中さんを送る詞」で、義理固い田中の人となりを追想録に寄稿した。…朝比奈管長は、がいな男の山下亀三郎が亡くなった時、盟友の松永安左衛門が「私の友人山下が死んだ。この寺に葬らせてくれ」というの…

アイクと呼ばれた男 (29)ジャパンライン(30)ジャパン近海(31)インターエイシアライン

海運集約でジャパンラインが発足した。田中も竹中も自分が育てた会社の名が無くなるが、大所高所から国家の為に合併したので、名に拘らず、ハイカラな社名にした。 筆者が入社した(昭和42年)ジャパン近海は、以前、元日東商船が入っていた岸本ビルの3階に…

アイクと呼ばれた男 (27)吉田町へ帰省(28)海運集約

浜田は昭和35年、雑誌『四国』4月号に〝望郷”と題して寄稿した。 …ここ玉津は法花津湾と呼ばれる湾の懐深く抱かれた村で、はるか南西は、豊予海峡の波頭を眺めて天涯に接し、又その背後には600m余りの高森山がそびえ、数々の連山、山稜によって囲まれている…

アイクと呼ばれた男 (26)スーパータンカー建造

浜田がタンカー「エベレスト丸」を建造した頃、日本で初めてのLPGタンカーが播磨造船所で起工された。日東商船が日本合成ゴム㈱向けの「第一えるぴい丸」で、5年後、浜田はジャパン近海の社長として、えるぴい丸シリーズ船を建造、運航することになる。日本…

アイクと呼ばれた男(20)海運の民間還元~(25)欧米漫遊記二

内航海運新聞への掲載、11月27日が最終回(35回)でした。暫くぶりに、第20回から順次アップします。とりあえず25回まで掲載します。

アイクと呼ばれた男  (19) 終戦

大同海運の船舶被害は、同社船員の菊池金雄氏が主宰するウェブサイト『硝煙の海』から引用させてもらった。菊池氏は2020年、満100歳の時、「山縣勝見賞特別賞」を受賞された。長年にわたる徴用船の記録/取材活動を通じて、海事交通文化の発展に寄与したこと…

アイクと呼ばれた男 18 偉才亀三郎逝く

山下亀三郎は新橋の料亭「金田中」や「新喜楽」で政財界、軍部の要人を呼んでモテナシタ。河豚会では2回に分けて接待した。河豚に奇麗処に、惜しみなく金を散じた。田中正之輔も呼ばれて元ボスと珍芸を披露した。浜田は小唄、長唄、謡曲など何でもこなした…

アイクと呼ばれた男( 17) 「船舶運営会」 

昭和16月8日の「トラトラトラ」で太平洋戦争に突入した。田中の唱える海運の国家統制で、昭和17年4月、船舶運営会が設立された。 本部は日本橋白木屋の6階に設置され、運航局など実務部隊は「山下学校」の優等生ばかりだった。理事長に八幡屋春太郎、運航局…

アイクと呼ばれた男 (16)辻鈔吉、大同を去る

昭和13年、浜田は論功行賞で会社の株式、50株を貰った。また賞与として1万円を支給された。当時洋服が50円、靴が10円の時代である。浜田は1万円を貰い「どないしたらいいもんか」と、ハタと当惑したそうだ。 浜田は15年1月北京陸軍部に召喚された。大同は秦…

アイクと呼ばれた男 (15)盟友・石田貞二急逝

田中正之輔は山下汽船を辞める時に125,000円の借金があった。 昭和12年5月、亀三郎翁は田中ら山下脱退組を午餐に招待した。翁は7年前に辞めた者に退職金を払うという。「金はわしが貸したんだ。初めから払って貰おうと思っとらぬ。退職金は取り悪くかろうが…

アイクと呼ばれた男 (14)定期航路とタンカー

飯野逸平は、伊予吉田町生まれ、明治37年宇和島中学を卒業後、村井保固の紹介で森村組に入社した。大正元年からニューヨーク支店へ赴任、村井の下で働いた。村井の後任として太平洋を33回往復し、自らを「太平洋の蟻」と称した。 最後の航海を記念して、 一…

アイクと呼ばれた男 (13)新型船・高栄丸

浜田喜佐雄の入った大同海運は、船を持たない、オペレーター専門の会社だった。商売道具の船を持たなくて、貨物輸送の仕事が良く出来るものだと、世間は思うかも知れないが、ものは考えようである。他人の船を借りればよいのだ。1年間の用船期間と月間の用…

アイクと呼ばれた男 (12) 創業の苦難

大同海運の資本金は50万円、そのほとんどを創業して1年で食いつぶした。昭和恐慌のあおりで貨物は閑散、海運マーケットはどん底だった。 浜田は無償提供の内田ビル3階に通勤した。上司・八幡屋春太郎39歳の下に30前後の若者がそろった。暇な営業マンやブロ…

アイクと呼ばれた男 11 学者・田中正之輔

浜田喜佐雄のボス・田中正之輔を山下汽船に入社させたのは、京都大学・末広重雄教授だった。末広の尊父は明治のジャーナリスト末広鉄腸、宇和島の人である。亀三郎は末広教授に京都大学の秀才を世話してもらった。 (渋澤栄一子爵と末広重雄のエピソード) …

アイクと呼ばれた男 10 大同海運発足

山下汽船は昭和恐慌の中でリストラの嵐だった。多くの社員が山下を去ったが、喜佐雄は生き残った。しかし上司田中正之輔とがいな男の経営方針は大分ズレがあった。結局喜佐雄は先進的な田中に付いて行った。喜佐雄は8月に辞表を出して大同海運発足までの4…

アイクと呼ばれた男 9 「大山下に謀反」

浜田喜佐雄は法花津湾のほとり白浦の生まれ。山下亀三郎は山あいの喜佐方の出身。浜田の父親・定吉は喜佐方の生まれで、次男坊に喜佐雄と名付けた。定吉は亀三郎のもとに息子を奉公に出した。16歳の店童は北九州で修業をして神戸に戻ってきた。25歳になった…

アイクと呼ばれた男 8   「引合い」

昔、神戸は船会社のメッカでした。欧州大戦の船成金が幅を利かせていた時代に、浜田青年は、門司、若松で石炭運送に奮闘努力する毎日でした。大手商社の鈴木商店が倒産するなど昭和恐慌の中で、待望の神戸本社に戻りました。先輩の八幡屋は宇和島向新町の生…

アイクと呼ばれた男 7 本社へ戻る

ブロガーの所属した「大型船組合」の初代事務局長は纐纈(こうけつ)氏、2代目会長は木村一郎氏で二人は「山下学校」出身。昭和40年代の頃(彼は山下学校の人だ)という会話をよく聞いたものだった。何のことか分からなかったが、山下汽船の出身は、やり手の…

アイクと呼ばれた男 6 本船・輸入係

浜田喜佐雄は本船係になって、船が着くと船員たちの郵便物を何よりも先に届けた。長い航海で船員が喜ぶのは手紙、新聞、雑誌などである。情報や活字に飢えているのだろうか。昔、ブロガーも社船が入港すると雑誌類を持って行った。航海の短い内航船でもスポ…

アイクと呼ばれた男 5 下積み時代

ブロガーがジャパン近海に入った昭和42年の頃、船への連絡はSSB無線で、日本の沿岸地区に内航無線局があった。電文を短くしないと経費が掛かり上司がうるさい。ウナ=至急、キバリコウ=頑張って走って、ヘンタム=返事を頼む、など電文を作るのも一苦労した…

アイクと呼ばれた男 4 門司に転勤

浜田少年は入社早々、門司に転属となった。そこには3歳年上の石原潔がいた。彼は同じ南予(長浜)の出身で、宇和島中学を中退して山下亀三郎に拾われた。潔の親父は警察官で南予の駐在所を転々とした。浜田の故郷、吉田町にも勤務したことがあるという。知…

アイクと呼ばれた男 3 「店童」

浜田喜佐雄翁は白浦の天満主神社へ100万円の寄付をして、生存中に境内のそばに銅像を建てた。昭和50年ブロガーは白浦浜田家に年始に伺った。その時、神社の銅像の前で翁から写真を撮って貰ったのが、25歳のこの写真である。 昭和50年1月3日 喜佐雄翁…

アイクと呼ばれた男 2 「出郷」

浜田喜佐雄の山下汽船入りは、最初は弟が行くことになっていたが、年が13歳でまだ若いという事で喜佐雄にお鉢が回ってきた。 喜佐雄の母かつは、玉津・法花津の木下家より嫁入りした。ブロガーの母キヨ子は木下家の出で、喜佐雄と母は従兄の関係である。 吉…

アイクと呼ばれた男 1 「大同に浜田あり」

『アイクと呼ばれた男』気障な題名ですが、また内航新聞へ連載が始まりました。前作『がいな男』が好評で、調子に載せられて執筆しています。 アイクとはアイゼンハワー元米国大統領の愛称、がいな男の弟子「浜田喜佐雄」はその顔がそっくりなので、皆からア…

がいな男 (50/最終回)銅像建つ

がいな男もとうとう最終回となった。昨年1月31日月曜日に、第1回目が掲載されたが、その後、4月6日から当ブログにコメントを補足してアップした。近日中に50回分をまとめた小冊子を制作しようと思う。 昭和35年11月3日の銅像除幕式で、宇和島市長中川千代治…

がいな男 (49) 巨星墜ちる

がいな男、 山下亀三郎は、昭和十九年十二月十三日、神奈川県大磯町西大磯五一八の別荘で肺炎のため逝去した。墓は、鎌倉円覚寺にあったが、後年、小金井市・多磨霊園に改葬された。多磨霊園には亀三郎翁ゆかりの大物が眠っている。ブロガー著作の『トランパ…

がいな男 (47)行政査察官 (48)老骨にムチ

がいな男の長男・太郎が山下新日本汽船/昭和57年の『殉職者追悼録』に〝追憶〟と題し寄稿している。 第一次大戦の時代は、私はまだ学生であったので、あまり多くの事を記憶していないが、第二次大戦中は社長であったので思い出も数え切れぬ程多いのである。 …

がいな男 (46) 天皇陛下ご進講

がいな男の秘書、木村一郎は京都帝国大学卒のインテリで、晩年『足跡』を著した。 木村は、昭和5年山下汽船に入社、日々日記をつけていた。 昭和10年6月神戸港には、ロンドン支社へ赴任する木村を見送るため、会社の連中や、川崎汽船、三菱商事などの関係者…