2022-01-01から1年間の記事一覧

がいな男(38)一千万円を寄付(39)山水育英会

がいな男は陸海軍へ1,000万円の寄付をした。米一表が12円90銭、ビール大瓶が45銭の時代、現在の価値にすると約850倍となる。当時、1万トン級貨物船が10隻ほど建造できる巨額をポンと寄付したという。現在の桐朋学園の沿革には(昭和15年山下汽船の山下亀三郎…

がいな男 (36)軍需輸送(37)望郷の旅

昭和12年7月、北京の西南部「盧溝橋」で日本軍と中国革命軍が衝突した。支那事変といわれる日中戦争の発端だった。がいな男は太平汽船、国洋汽船、浪速海運、中京海運、東洋汽船など関連会社を設立した。また専用船部門にも手を広げ、鋼材専用の三星丸を建造…

がいな男  (35)二・二六事件が起きる

「二・二六事件」で殺害された斎藤實内大臣は、亀三郎が初めて海運に手を染めた時に「喜佐方丸」を御用船に推してくれた恩人である。高橋是清大蔵大臣とは、浜町や木挽町の料亭で会ったが(いかにも武骨で無頓着で、苦労した所を少しも見せない人だった)と…

この人もがいな男 母校の先輩「道上伯」

吉田中学(現吉田高校)の第6期生に道上伯(みちがみはく)という1964年東京オリンピック金メダリストのアントン・ヘーシンクを育てた柔道家がいたことが分かった。今年7月、出生地の八幡浜市で道上雄峰氏(ご子息)が「道上伯生誕110年」の記念講演を行った…

がいな男 (34)トランパーの雄

船舶運航業者のことを「オペレーター」と呼んだのは、海運の本場イギリスではなく日本が始まりだった。山下汽船は自社船の何倍もの船を用船、主に不定期船として運航して‟トランパーの雄″と呼ばれた。昭和初期、山下汽船の木村一郎がロンドン駐在員の時、取…

がいな男 (33) 竹馬の友死す

がいな男の親友、清家吉次郎の葬儀は3月2日吉田中学校で行われた。霊壇の中央にはその位牌(清涼院淡然明快居士)を安置し、伊達侯爵、鈴木政友会総裁、山下亀三郎氏から贈られた花輪の類がその左右を埋め尽した。参列者はー戸愛媛縣知事、山下亀三郎氏など4…

がいな男 32  5.15事件が勃発

海軍青年将校らが犬養毅総理を襲ったクーデター5.15事件は、軍部の政党政治への反発だった。「吉田三傑」の村井保固は、犬養毅や尾崎行雄らと慶応義塾の学友だった。村井が、ニューヨークタイムズで犬養の訃報を知ったのは、またしても株式相場で大穴を空け…

がいな男  31  軍部の横暴期

がいな男は「人たらし」の術を永年の体験で身につけていた。料亭接待のほかに、神戸/東京の出張の時にも、東海道線の一等展望車に陣取り、酒を飲みながら政財界人と歓談し情報を仕入れた。 日銀総裁の井上準之助とも列車に揺られながら杯を重ねたのであろう…

がいな男  30 満州事変勃発

がいな男は、田中らの離反で社員が手薄になったので、優秀な大学生を募集した。東京帝大から三人、京都帝大、早稲田大、大阪商大から一人ずつ採用し、入社したその日からどんどん仕事をさせた。新入社員は連日残業続きで、夜食にうどんばかり食べていた。 そ…

がいな男  29  部下の離反

がいな男に、がいな事が起こった。部下の田中正之輔ら20数名が辞表を提出したのだ。ブロガーの恩人「浜田喜佐雄」もインテリの田中に付いて行った。浜田は、がいな男と同郷でボスを頼りに16歳の時に山下汽船へ入社。店童から叩き上げて28歳の営業マンになっ…

がいな男 28 昭和恐慌

昭和元年は一週間で終わったが、日本経済は大正9年の大反動から続く慢性的な不況から取付け騒ぎなど金融不安が続く中で、関東大震災が発生し、震災手形の絡んだ不良債権の存在が不安をあおった。鈴木商店は台湾銀行からの融資が止まり関連会社は清算され、イ…

がいな男 27 台湾航路撤退

がいな男は、『沈みつ浮きつ』で〝海外旅行の事″と題して口述している。 最初に海外に行ったのは明治39年のことで、新喜楽の女将おきんと韓国統監府の伊藤博文公を表敬訪問した。がいな男は、親戚の古谷久久綱が伊藤公爵の秘書官だったので公爵には屡々お目…

がいな男  26 関東大震災

関東大震災の死者は10万人強だったが、その8割が焼死だったという。二百十日のこの日は台風が日本海に抜け、関東はフェーン現象で強風が吹いていた。このため木造家屋の多い下町が全焼した。 がいな男が心酔する渋澤栄一と後藤新平の大震災に関するエピソー…

がいな男  25 渋澤栄一と論語

渋澤栄一が著した『論語と算盤』(孝らしからぬ孝)のくだりは、心学を普及させた江戸時代の中澤道二『道二翁道話』の一節を引用したもの。 ——近江の有名な孝子が、信濃の国に有名な孝子がいると聞いて面会に行った。 家には老母がおるだけで、息子は山に行…

がいな男  24 吉田三傑

がいな男の乳兄弟「清家吉次郎」は慶応2年、吉田藩河内村に生まれた。二人は仲良く圓通寺の小学校に通った。吉次郎は愛媛師範学校(現愛媛大学)を出て、教員、校長を歴任し南宇和郡の視学(教育行政官)を務めた。その後、政治家に転身し県会議員、国会議員…

がいな男  23   戦後の不況

大正10年になると、欧州大戦後の不況風が厳しくなった。株価の大暴落は、全国の各銀行で取付け騒ぎを起こし金融機関は大混乱した。バブル崩壊は多くの成金たちをのみ込み、横浜豪商の茂木商店、安部商店、増田商店が倒産し、鉱山王の久原房之助は事業を投げ…

がいな男 22 面白い部下

がいな男が成功したのは、優秀な社員を採用したことである。田中正之輔は京都帝大を卒業、大正6年4月に入社した時、手当35円の辞令を貰った。だが手当と給与は違う、7月には給与は65円と決まった。帝大卒30円のころで破格の扱いだった。辻は大正7年、東京高…

キンドル本を出版 (子規とあんやん)

9月19日は、正岡子規没後120年の「糸瓜忌」でした。くしくもこの日は、イギリス連邦王国女王・エリザベス二世の国葬がありました。 がいな男の竹馬の友で、「吉田三傑」の清家吉次郎は、子規居士と縁があります。明治33年、吉次郎は根岸の子規庵を訪れ、子規…

がいな男 21 三菱の接待術

がいな男は、昭和13年、岩崎弥太郎の生まれた高知県井ノ口村を訪ねた。亀三郎は16歳で「俺は太政大臣三条実美のようになるんだ!」と言って故郷を後にしたが、その後は「岩崎弥太郎になる」と趣旨を変えた手前、弥太郎の実家に行ってみたいと考えていた。そ…

がいな男 20 欧米視察の旅

日本海運集会所は、毎年、故住田正一氏の海事資料刊行、海事史の研究を通じて、広く海事文化の発展に寄与した記念して、住田正一海事奨励賞など三賞を表彰している。 住田正一は松山市出身、東京帝国大学・法科大学政治学科卒のインテリで、鈴木商店の船舶部…

がいな男  19 大戦バブル崩壊

大正七年(一九一八)アメリカ参戦とロシア革命で、各国の厭戦気運が高まり十一月には停戦協定が結ばれた。戦死者九百万人、民間人七百万人という大きな犠牲者を出し四年半という長い歳月の戦いはやっと幕を閉じることになった。 亀三郎は、不況に備えて航路…

がいな男  18 秋山中将が逝く

がいな男の小田原にある別荘「対潮閣」は、海軍中将の秋山真之が亡くなった所で有名になった。 亀三郎、真之、子規は慶応3年生まれの同い年だった。松山のふたりは、旧制松山中学、東大予備門で学んだ。真之は、海軍へ、子規は新聞「日本」の記者になった。…

がいな書家 中澤京苑先生!

ブロガー著書『トランパー』の題字を書いてもらった中澤京苑先生が、念願の毎日書道展のグランプリを受賞しました。業界紙に記事が出ました! 京苑先生はトランパー出版記念パーティにわざわざ東京から駆け付け、吉田公民館130名の前で筆をとり、『沈みつ浮…

がいな男  (17)  山下学校の優駿

成金のボスは事業拡大で人手が必要になり「求人材」の新聞広告を出した。「100名採用しても歩留まりは10人ほどだろう」とフルイにかける主義だった。大正6、7年には優秀な人材が集まった。帝大、高商、のインテリから尋常小学校卒まで100名ほど人材を集めた。…

がいな男  (16)  山下女学校

——親友の清家吉次郎は、明治三十九年、西宇和郡視学のころ、八幡浜商業学校の創設に尽力し、町立八幡浜女学校を創立した。吉田にも女学校を創りたいと丁度アメリカから帰っていた村井保固に相談したが、(いずれ郷里のために何とかするが、少し先にしてくれ…

がいな男  (15)  高輪の長者

~船成金たちのがいな話~ 内田信也は須磨御殿に300万円を投じた。増築する際、いなば山から土砂を馬車で運ばせた。ある馬車曳きは北口から馬車を曳き入れ土砂を荷下ろしせず、そのまま南口から出た。再び北口から入って駄賃をごまかした。しかし監督に見つ…

がいな男  (14) 三大船成金

がいな男は欧州大戦の前に社員60名を従え、運航船12隻で商売の拡大を目論んでいた。ロンドンに高野駐在員を派遣し世界情勢をウォッチしていた。大戦が勃発するや全ての船を欧州の船会社に貸してぼろ儲けをした。しかし所有船を海外へ定期用船として提供した…

7月1日は安藤神社の夏越祭です。

かたい話ですが、安藤神社の主祭神は、安藤義太夫藤原継明公(あんどうぎだゆうふじわらつぐあき)です。神社由緒は、嘉永2年2月創祀、明治42年村社に列格。 安藤公は寛政5年2月宇和島八幡川原に参集した領民を説得したが志ならず、ついに遺書を認め全責…

がいな男  (13)  新造船発注

山下亀三郎は自伝「沈みつ浮きつ」で(渋澤子爵を偲ぶ)と題し、思い出を語っている。がいな男は、渋澤栄一92歳の最期まで、公私ともに大なる指導を受けたという。 その中で一番感激の念に堪えず頭に残っているのは、大正4年に郷土松山に足を運んでもらった…

がいな男  (12) 欧州大戦勃発

彼の福澤桃介は「金子直吉は我財界に於るナポレオンに比すべき英雄だ」と評した。鈴木商店の金子は欧州大戦勃発と聞くや、世界の商品、特に軍需品は必ず暴騰するとみて、ロンドンの高畑に「金に糸目をつけず、あるだけの鉄、物を買え)と号令した。 金子は、…