2018-01-01から1年間の記事一覧

豪雨被害の支援活動

11月12日のブログで支援活動の事を書いたが、その後朝日新聞柏支局の某記者から取材を受けた。 記事になるか分からないがダメもとでやりましょう、と熱心にその後も電話でやりとりした。 11月26日(月)に電話があり、明後日の28日朝刊に出ます!丁度散歩中…

ゆく年

今年の漢字は『災』、振り返ると関東は6月梅雨明けして連日強風が吹き続けた。 当地白井でも10日ほど続いた南風は異常だった。 オカシイなと思っていたら7月の西日本豪雨だった。それから記録的な猛暑が続いた。 今年は田舎に3回も帰ったが、現役中にもない…

忘年会でした

忘年会で東京に2回出張る 今年も残り1週間となった 長い1年だった、1,2月の事を思い出せない 3月松山、4月長野、5月松山、7月豪雨、10月松山 同級会、同窓会、生誕祭、葬儀、取材、キャンペーン 身近な人が3人亡くなった 新聞掲載で多くの人に対応した 田舎…

伊予吉田の歴史と文化 吉田祭礼の行列絵巻(2)

お祭りは、御家中のお練りに続いて、町人町のお練りとなる。威風堂々から町方の行列へと時代絵巻は移ってゆく。 まず山草や竹で飾り付けた「塔堂車」が町方の先頭に立つ、別名「左義長」という小正月の火祭りは、餅を焼いて息災を願っていた。 次は裏町三丁…

支援活動が朝日朝刊に載る

毎日忙しい日々だった。マスコミの力が凄いものだとつくずく思い知らされた。 田舎の豪雨災害支援キャンペーンが、とうとう11月28日の朝刊第2千葉に掲載された。事前に聞いていたので午前3時過ぎに目が覚め郵便受けの朝刊を開くと大きく取り上げられている…

伊予吉田の歴史と文化 吉田祭礼の行列絵巻(1)

『先知録』に八幡宮祭礼の行列絵巻は、高月紫明・芝誠明・利根翠塢の描いたものが現存している、とあるが、平成2年発行の『伊予吉田郷土史話集』に著者の芝正一氏は、叶法華津屋の流れをくむ高月紫明が描いた吉田祭礼図絵に関して記述している。月王高月晴…

富士山とスカイツリーを撮る

千葉ニュ―のアルカサール横の陸橋から富士山が見える 木枯らし1号が吹くというので出掛けた 暫く予定がないので暇つぶしに11月のムービーを編集した一句 木枯らしにスッキリ富士の姿かな

豪雨支援キャンペーン取材

ブロガーは豪雨で甚大な被害を受けた郷里伊予吉田に何かしなければと考えていた。 9月頃から著書「トランパー」を売って1冊500円を寄付しようとキャンペーンを始めた。 10月20日―21日に「白井市ふるさとまつり」があった。その折、地元情報誌の取…

嗚呼、秋深し

11月も半ばを過ぎた。平年より暖かいと云うが齢のせいか寒く感じる。 市高連の作品展にHO会書道部の二点が入賞し、印旛地区展に出品することになった。 昨日は小春日和となり久々に花の丘公園を散策。台風の塩害なのか、紅葉がパットしない。 いつもならモ…

伊予吉田の歴史と文化 古文書『浦上手控』『先知録』の祭礼記述

(吉田藩の古文書を読む会)の秋田通子さんは吉田中学同級生で、過日『浦上手控』と『先知録』を贈呈して頂いた。女史は古文書等で伊予吉田藩の歴史を調査・研究して後世に伝えている。難解な古文書を郷土史家仲間と翻刻、編纂している。 この著書に伊達藩の…

7月豪雨被害の爪痕 (支援活動)

10月末、姉の葬儀で帰省、吉田支所の河野さんに休日にも拘らず被害の現場を案内してもらった。御殿前から見える吉田球場上の山が頂上辺りから大きく崩れている。異常な光景だった。同級生井上論天氏が住んでいる御殿内は胸の高さまで水が来たそうだ。一階が…

伊予吉田の歴史と文化 八幡祭禮

(落葉のはきよせ)吉田秋祭りは、伊予吉田藩祖の伊達宗純が、藩の総鎮守である南山八幡神社の神幸祭として寛文四年(1644年)に始めた。 大正10年に甲斐順宜(かいのぶより)が発行した「落葉のはきよせ」の中編・治政第四項「典禮と秩序」に八幡祭禮の事が…

久々ブログ更新

10月は結局更新なし。face book(https://www.facebook.com/profile.php?id=100004577434404)の出番が多かったのかブログから遠ざかった。 高校の同窓会で世話役を仰せつかりいろいろ多忙だった。 地元のイベントが多く、自書「トランパー」販売に励んだ。 …

伊予吉田の歴史と文化 吉田秋祭り

今日は郷里吉田町八幡様の秋祭りである。何時かはお祭りに帰ろうと思っているが、なかなか機会がない。 最後に秋祭りを見たのは何時だったろうか。18歳の春に上京したので17歳の秋か、高校時代はとんと祭りの記憶がない。 やはり子供の頃のお祭りが今でも印…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 48(最終回)

村井夫人キヤロライン 村井の學友、犬養毅は村井の親近者に、『今の内に村井の財産を日本に纏めて置くがよかろう、左もなければ萬一の際米國人に取られてしまうぞ』と忠告したことがある。これより先き村井は夫人や太郎にそれぞれ産を分けて、安處に差支えな…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 47

最後の病氣と終焉 (2) 村井病気の報に最大の衝動を受けたのは、米國に病を養って居る村井夫人である。如何なる方法を執つても構わぬから、村井を米國に送つて欲しい。必要とあれば専門の医師、看護婦を同伴させて、一日も早く米国へ屈けてくれるやうと云…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 46

最後の病氣と終焉 (1)昭和6年6月第89回の横斷で、渡米した村井は珍らしく長逗留をして容易に足を挙げなかった。否な挙げるに忍びないものがあつた。 彼の歸朝を促す用事は山積して居るにも拘わらず“I must go”と繰返し云ひ続けたにも拘らず、遂に丸4年と…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 45

反對癖と包容量 次に趣味と云ふには当たらない嫌ひはあるが、村井にはよく反對する癖がある。 伊藤博文と陸奥宗光は互いに相許す親密な間柄であつたが、この伊藤にも反對癖があつた。陸奥が何か伊藤に献策しやうとする場合には、豫め甲、乙、丙の三案を用意…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 44

理想的散財 古來富を作つた人は枚挙に遑ないが、その富を上手に散じた例は多く聞かない。 東洋には錢神傳や貨殖傅の如き富に就いて語つたものは多少あるが、出來た富を着用し、これを巧妙に散ずる美徳を説いたものは、殆んど絶無と云つても善い。詰り蓄財は…

ふくしまつり

朝早く、近くの福祉センターへゆく 著書「トランパー」の売り込み! 市長が挨拶、オープニングセレモニーは和太鼓の演奏 郷里吉田町の豪雨被害をパネルで説明 田舎は復興のスローガンを創り頑張っている 仲間内で何とか5冊売れた、一部は田舎に寄附する 合間…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 43

海外投資の二三朝鮮とつ國にうつしてや見ん櫻木の かはらでほこる花のいろかをこれが村井の海外主義である。同じ南予出身の佐藤政次郎の朝鮮における農業経営を後援して、投下した資本は次第に増加して、最後に90万円と云う巨額に達した。殊に面白いのは是だ…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 42

村井とシーボルト 村井は知人から掲額用に書を頼まれると大抵断って書かなかった。その理由は、「標語など役に立たない。支那や朝鮮に行くと実にうまい掲額が至る所に見られる。若し標語通りに行ったら支那、朝鮮は世界の強国になっているはずだ。然るに事実…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 41

説教行脚昭和6年の村井は本間俊平師夫妻と郷里吉田に歸り、森岡天涯を柬道主人として南豫地方に3週間53日間と云ふ説教の猛行脚に出掛けた。 何がさて功成り名遂げて、身も輕く心は解放されて空飛ぶ鳥の如く自由である。 郷里の父老と竹馬の友は昔の三治(村…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 40

洗禮 大正6年2月3日彼は「鐵窓23年」で有名な牧師好地由太郎から洗礼を受けクリスチャンとして登録された。 彼にとって明治12年9月第1回の渡米までの26年間は一生の準備期間である。次に明治40年第53回誕辰までの27年間は活動時代である。 更に是より昭和11…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 39

宗教発心相場を除いて、村井の性行はあらゆる面で森村翁の再版、縮図であることは、模倣と云うよりも寧ろ生き写しの感があった。 青壮年時代には実業一点張りで邁進、次いで晩年信仰の道に入り宗教に精進し古聖者の足跡を辿った。 先ず、本家たる森村翁の宗…

やっと涼しくなった

今年は何と云う夏だったのか 豪雨、猛暑、台風、地震と天災続き ** 久々のブログ更新だあ 花の丘公園までウオーキング、というかダラダラ歩く Movieをyou tubeにアップ さあ、今夜のG軍はどうか?負けると最下位転落もあるぞ一句 軽快な足は何処やら…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 38

相場(3) 翌1930年6月8日村井は紐育から、日本の伊勢本ー觔に左の手紙を寄せて居る。 (前略)さて小生も前年來当方の經濟界見習の爲め餘計の事をして、可也手傷をいたし候。前年も森村翁御存命の節、可也の痛手を受けたるにこりもせず、自分は可也この道…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 37

相場(2) 紐育の三階で小錢を賭けた輸臝(勝ち負け)に味を覚えてから、そろそろ本物の相場に手を出して見るが、興味は又格別である。道樂も次第に嵩じて、何時の間にか深人りしたことに気が附いた時は既に遅い。今度は松山の公債売り飛ばし位で追い付かぬ…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 36

相場(1) 以上は病にしても疵にしても致命傷と云ふほどではない。然るに最後の相場癖に至つては病膏盲に入ると云ふか、命取りと云ふか、ー度ならすニ度ならす、大痛手を受けて沒落の瀬戸際に瀕したことあり。自分にも涙を以て改悛を誓ひ、極力抑制したやう…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 35

道楽次が道樂である。松山遊學中道後遊びが、病みつきで養母の虎の子の公債証書に羽根が生へて、飛んでしまつた失策は大きかつた。本人はこれで免疫されたから、其後は極端な道樂に堕しなかつたと云つてゐるものの、疵は何處までも疵である。慶應在學中は近…