戦国武将・土居清良という男 13

 民と倶に飢えん

  元亀3年、関西地方は稀なる大凶年だった。清良は宗案と策を立て、直ちに城中の兵500人を出して百姓に加勢し11月初めまで麦を蒔き終わった。清良は土居左兵衛に領米9割方を分けよと命じたが、「来年は元親攻め来たらん、籠城の用意なくてはかなわず」と答えた所、清良曰く、

 「然も有らん。然りながら当年日損してあれ共、我内々の心懸け、宗案が教えを以て作早く仕付けさせ、他領に比ぶれば十倍を越えたり。切々の戦い大敵に当たりても手柄計りして一度も破れざるは、これ領民の心深き故なり。亦我が下の民は他の民に変り、歴々の武士のならぬ武功を立てたるは皆の手の者と同様なり。侍たらば通分の領地取らすべきを叶わざる者如何程ありと思わるるぞ。君子有潔矩之道とて、前後左右上下通分にせざれば悪しきものなり。我籠城して兵糧の足らんことを案ぜば、民今正に死することを思うべし。孟子王道を言うも民を養うを以て初めとす。仮令来年籠城するとも兵糧つきることあらじ。若し又飢死するとも他並と心得べし。民飢えて何の糧食ぞや。民と共に死なば別に望みなし。堯、舜も民を養うて病むと言えり。まして我々凡 人に於てをや」とて分ち与えた。

 嗚呼!大森山上、草も慟ぜん。石も哭せん。とある。

 

 王道蕩々

  民を養うは王道の初めと、天正2年正月清良の誕生日に、領民男女大森山上に集め一汁三菜の膳を出し酒を用意して曰く、

 「無菜の食なり。能勧めよ。方々男女共に能く聞け。君子に義ありとて、人は皆義を以て本となす。君は礼を以て使い、臣は忠を以て仕う。義悪ければその道立たず。されども義とばかり思うべからず。五道一つ欠けてもその家治まらず。家を治むるには我分際分際の家職を怠らぬに有り。大小上下誰が家にも相応の五道あり。先ず面々が家の四方に竹を植え木を林し、鳥を飼い獣を養うにも五道の心を違えてはそれ皆育ち難し。たとえば草木植え置き、その実を取る事一年に一度なり。それを待ち遠しき事にして言うは欲心深き頑鈍なり。成らざる処を知つて思い切り、成る処を知つて調えるを才覚と言う。事の成らぬを成したく思うは愚痴なり」(中略)

 「主人は母に似たり。汝等の子の汝等を慕う如く、主人を慕わば如何にも純熟なり。これを和合と言うぞ。天地和合して草木も生くるなり。人その和合の頭なり。人にして和合の道を知らざるは天道に背くなり。法に背かざるを理と思うべし。その真似をさせんと里侍を置く。能く見習いて法を守り五道の道を知るべし。野郎をして遊ぶも働いて辛抱するも同じことぞ。見物好みして気を晴らす者あれば、働いて見物に勝りたりと思う者もあり、仕付けたる癖なりと心得べし。唯居りする者盗人ならでなし。その外は唯居ては調わず」と、どっと笑い、

 「扨て今日は酒能く飲みて緩々と遊び、明日より諸事油断すべからず」と、ついと立ちて奥に人る。それより酒出で家老衆立ち廻りて歓待し後は噺などして打ち興じ、女は早く帰って子を抱いて笑うものあり、男は早速田畑起すもあり、帰る道にて木を拾うもあり、酔い転びて伏せるもあり。翌日よりは領民一入楽しみて働けると聞いて、清良の喜びは一方ではなかった。

 道は親しく語られねばならぬ。親しく導かれねばならぬ。愛は自ら親しい。清良にこそ「親民」の語は体現されている。見よ。餓死する者多き戦国時代、南海の僻地大森城の麓下には、上下和楽、道楽しみて自ら行わるる、王道蕩々たる世界が実現されて居ったのだ。

 本書には、

 当時の出家達集まつて、

「学問は全く式部大輔の如くありたきものなり」と称賛し、名僧法田和尚は「気軽き人かと見れば、重きところは大石よりも重く、恐ろしき人かと見れば、慈悲第一に、人心柔らかにして幼き頃より粗忽な振舞い今になし。花も実もある人と言うはこの如き人かな」と評している。君子三変ありとも言うべきか。

梅岸和尚は、「武田、上杉、北條、毛利、織田、大友皆天下の良将なれども何れも欠点あり、大行は細謹を顧みずとは誤れり。清良こそ第一等の名将」と感嗅した。

と記されている。