戦国武将・土居清良という男 7

大森帰城

 清良は今、石城山頂に佇んでいる。
「松風に秋をば告ぐる声ありてその憂きことは問へど答えず」
静かに彼の口ずさむのが漏れ聞こえた。傍らの鉄首座、六郎兵衛の眼が濡れて夕闇の中に光っている。石城陥落から2カ年、あの炎天を焦がした状も、剣戟雄叫びの声も総て夢の如く、唯草繁くして虫声のみ頻りである。
 本書には、
 彼は鉄首座の示せる早雲等の辞世を手にした。烈々たる父祖の心は今や彼の胸奥に甦り来った。大森城を法戦場と観じたるその大自覚を見よ。火を焼くを得ざる義への高らかな凱歌を聴け。更に七代目備中守清時の勤王の志を思え。今や世は修羅の巷に勤王の道も無く、民は塗炭の苦しみに喘いでいる。彼は彼一生の道を確然と把握した。(中略)
彼は凛然として空を仰いだ。さやかなる七月十四日の月は十本松峠の松並木の上に登つている。彼は高らかに詠じた。
「故郷は軒も板屋もあらざれば洩らでそのまま照らす月哉」
六郎兵衛に促されるままに彼は山を降った。と記されている。

 清良は土佐に2年留まったが、一條尊家はお松を人質として彼に150貫を与えた。彼は永禄5年7月12日17歳にして大森城に帰った。14日石城に一族の跡を弔ったのである。
 父祖の養った領民は衰え尽くしている。清良帰城と聞いて集まった者の目にも当てられぬ惨状に清良は暗然としていた。彼は7月15日先ずは一族郎党の大法会をと思って帰城したが、民の姿を見るに忍ばず、その費用で民を救おうと法田和尚に相談した。
「仏に供養するとは飢えたるを救い、窮まるを助けんがためなり。供養とは共に養うとのことに候えば之に過ぎたる善根はこれなく候」との返事に清良は大いに喜び、15日に700人、16日に1000人への振舞いをした。
 若き慈悲ある領主を迎えた領民は希望と喜びに輝き、略奪の不安から解放され安心して働いたためこの年は近年にない大豊作となった。
領民は籠城の米は十分にある、清貞公時代の3倍も奉公するので一條に謀反をと申し入れたが、清良は未だその時に非ずとし、生業に専心励むべしと説いた。

松浦宗案との会合

 永禄7年清良19歳の時、家老らを集めて、「今天下大いに乱れて大小上下困窮して路頭に死人多く、その死人の半分は餓死である。それは耕作を進める心が無いゆえである。領中のやる気ある百姓、正直で功のある者、盗徒で大ちゃく者を呼べ」と妙な指示をした。それで呼ばれたのが、宮野下村の宗案と他2名でそれらを大森城に登らせた。
清良は3名に合い、酒を飲ませつつ終日農事農政を問うた。盗徒の言は観察を異にして参考にすべきことがあると、彼の人を用いるすべてがこの様に、その分に応じ才を用い、その心を正道に導いて人を生かしめている。
宗案の姓は松浦、清宗に用いられ功を立て領地も拝領したが、40歳になり領地を返上し世を逃れ農を楽しんでいた。
 本書には、
 清良と宗案との会合は天の大なる計らいであった。今やここに年若き名将と、年長し賢臣と時を得て相会し、仁政慈民の志を成さんとするにいたる。人生、人を得たる清良、宗案の問答を読む時、その惻々として迫まり来る民を思う君臣の至情に百世の下涙無きを得ない。宗案は全国各地を巡遊し、今の宮野下村に試験場を作りその研究を遂げたと言われている。
戦国時代に於て、他に勝る十倍の経済力と士魂を有する農民と、世界最古の農学書、その名も好ましい「親民鑑月集」とはかくして生まれたのだ。
とある。