2019-01-01から1年間の記事一覧

宇和島東高校、甲子園へ!

2015年5月ブロガー撮影 今日、9年ぶりの甲子園が決まった。おめでとうございます。 古くは南予中学時代に「トランパー」山下亀三郎翁が通った学校である。石原潔(裕次郎の父)も同じ学校だったが、二人は中退で卒業していない。 最近、早稲田大学卒の某漢字…

7月のムービー

千葉ニュータウンの7月 久しぶりに千葉ニュータウンのムービーを制作した。 マンション前の十余一公園はクローバーが群生しグラウンドゴルフの練習が出来ない。市の公園課なんとかして!今日はメンバーで近くの公園の清掃を行うが30分で解散した。 十余一公…

坂村眞民先生をこよなく愛する人々

5月のある日、横浜にある「宝積寺」を訪れた。母校吉田高校の先輩からのメールがきっかけだった。この寺のホールで眞民先生を敬愛する人たちは詩の朗読や演奏会を開いた。先輩の娘婿はサックス奏者、亡き母は西予市明浜町俵津の人。母の郷土で彼は詩人・坂村…

新一万円札とトランパー

トランパー亀三郎登場!にも書いたが、業界紙「内航新聞」に(新一万円渋沢と海運王山下)と題し寄稿した。 渋沢栄一という人物は当たり前だが凄い人、トランパーの山下亀三郎が口述した本「沈みつ浮きつ」に詳しく載っている。子供が50人いたという武勇伝も…

宇和島ムービー

宇和島ムービー 令和10連休に宇和島に帰った。 駅のそばに「パフィオうわじま」が4月オープンした。PAFIOはパール、フィッシュ、オレンジの頭文字をもじったもの。中々快適な空間で、1階は広々してゆっくり雑誌がよめる。 宇和島の画家、クリエーター「…

愛南町と清家吉次郎

『清家吉次郎伝』を執筆したのは、正岡子規に縁がある俳号「里雪」、元新聞記者で著述家の阿部利行である。 伝記編纂が決まると山下亀三郎翁は準備金と旅費を里雪に渡した。早速、里雪は清家の生地吉田町喜佐方へ向かった。吉田、宇和島で取材を重ね帰京後、…

愛南町へ行く(紫電改)

今年のゴールデンウイークは、平成から令和へ元号が変わることで、10連休となった。吉田中学校の同級会が宇和島であり45名が集まった。友達曰く「この11年間に8回も参加したよ」マア、よく続く同級会である。 宇和島からバスで愛南町平城の「紫電改保存…

本が出来上がった!!

2年かけてブログに掲載した『吉田三傑2019』~吉田町の歴史と文化~が印刷所から届いた。本は吉田町に特化した内容でローカル色の濃い本です。吉田町出身の方は、古き良き時代を描いているので郷愁をそそるのではないだろうか。 第一部は昭和初期の吉田町の…

トランパー・亀三郎登場

久しぶりにトランパー・山下亀三郎の名前が地方紙に載った。新一万円札の渋澤栄一との機縁である。母校の吉田高校に渋沢が書いた石碑がある。「優美貞淑」と渋沢の自筆を彫っている。 大正8年、渋沢が亀三郎のために贈ったものと思われる。 校長はこの経緯を…

簡野道明は伊予吉田の偉人 10(最終回)

小石川傳通院に参る 道明亡き後、信衛夫人は昭和16年財団法人・簡野育英会を立ちあげ、「子どもの教育にもっとも大切なのは母親であり、その母親となる女性の教育こそ教育の根本である」という道明の遺志に基づき蒲田高等女学校を設立した。しかし戦争が激し…

歴史的な日 新元号は『令和』=れいわ=

平成31年4月1日午前11時45分、新元号は「令和」と政府から発表された。 中国漢籍古典の漢字から選んでいたのが慣例も、出典は万葉集の序文からだった。 漢学者の簡野道明は天上で何を想うのであろうか。 簡野著「字源」に、令月は、〇よき月。儀禮、冠禮「――…

簡野道明は伊予吉田の偉人 9

死ぬまで執筆に専念 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に道明の人物が記されている。 =戦前の中等教育の漢文教育の権威であり、彼の編纂した教材は多くの中学校などで使用された。高見順の作品「わが胸の底のここには」、加藤周一の回想記『羊…

簡野道明は伊予吉田の偉人  8

小伝に書かれたエピソード (著述の日々) 先生がある種の本の註釈を為さうと、思ひ立たれると、数年或は十数年に亘つて、材料を蒐集して、準備される。そして一旦筆を下されると、実に神速に運ばれる。それは長い間、あの明敏な頭の中に、順序立てられてゐ…

簡野道明は伊予吉田の偉人  7

簡野道明と中野逍遥 先だって簡野育英会・簡野高道理事長から頂いた、村山𠮷廣著「漢学者はいかに生きたか」は、近代日本に生きた漢学者8名の人物を描いている。その中に簡野道明と中野逍遥という郷里南予の人が取り上げられている。 二人の共通点は、伊達家…

簡野道明は伊予吉田の偉人  6

間雲荘と徳富蘇峰 道明は、終生の大著である漢和字典『字源』を着想から20余年、大正12(1923)年、59歳のとき間雲荘で完成した。 蒲田女子高校の第3代校長・田波又男が(1962年就任)「簡野道明先生と間雲荘」と題して著作したものを簡野高道理事長から入手…

簡野道明は伊予吉田の偉人  5

心血を注いだ『字源』を刊行 道明が勤めた東京女子師範学校は、1949年「お茶の水女子大学」に改称された。国立の女子大学は、同校と奈良女子大学の2校のみである。 お茶の水女子大デジタルアーカイブズに、道明の写真が残っているので引用させて頂く。 明治3…

坂村眞民先生は癒しの詩人

しんみん先生が好きなタンポポの季節になった。朴という木も先生は好きだった。ほおの木を知ったのは、ウオーキングクラブで物知りの老女が教えてくれた最近のこと。何時も休憩する所に、香りのいい白い花が咲いていた。 先生の詩に、朴とタンポポという詩が…

簡野道明は伊予吉田の偉人  4

結婚/東京へ 本ブログは、平成22年(2010)名古屋大学大学院・文学研究科中国文学教授の加藤国安氏が、吉田ふれあい「国安の郷」で『簡野道明の若き日の足跡を訪ねて』と題し講演した資料を参考にしている。先生の名前が国安というのも何かの縁であろうか。 …

簡野道明は伊予吉田の偉人  3

代用教員から師範学校へ/教育者の道 道明は、明治13年16歳の若さで東宇和郡白髭小学校(現西予市野村町)の代用教員となった。吉田から数里離れた山間部で、両親の許を離れ一人で小さな茅屋を借りて住んだ。家の前には荒間地川の清流が流れ、水を汲んで顔を…

簡野道明は伊予吉田の偉人  2

生立ち/小学時代 簡野道明は慶応元年(1865)、伊予吉田藩の江戸上屋敷、南八丁堀で生まれた。幼名を米次郎といった。父は、吉田藩士の簡野義任で江戸定府の士だった。明治2年、米次郎五歳の時、版籍奉還で一家は江戸を引き払って吉田へ帰った。 菅野家のルー…

「簡野道明」は伊予吉田の偉人  1

蒲田女子高等学校を訪問 東京は京浜急行空港線糀谷駅の近くに「学校法人簡野育英会」がある。学祖・簡野道明の遺志を継いだ信衛夫人が、昭和16年「蒲田高等女学校」を設立した。今では蒲田女子高等学校、蒲田保育専門学校として女子教育、幼児教育を行っている…

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし      (缶の寄せ合い)【最終回】

缶の寄せ合い(ジュラ紀前より引用) 私が少年期の記憶である。町恒例の行事として毎年春に消防の出初式があった。出初式では一通りの形式ばった式の後、缶の寄せ合いというゲームが行われた。 式は町の中央を横切る川の川原で行なわれた。春といってもまだ…

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし     (メジカ釣り②)

メジカ釣り②(ジュラ紀前より引用) 空がすっかり明るくなり、やがて日が昇って海が青くなるころまで、ほんの1時間前後であったろうか何度かの回遊訪問を受け、舟はずっしり重くなった。 京都のいとこたちにとっては、まさに衝撃的な経験であった。 その後、…

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし     (メジカ釣り①)

メジカ釣り①(ジュラ紀前より引用) 戦後間もなくのこと、ある日突然、前触れもなく釣り舟が引かれてきて家の裏につながれた。手こぎの木造和舟である。いわゆる伝馬船の部類に入る。当時、町ではエンジン付きの漁船は少なく、まだ手こぎのものが多かった。 …

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし     (餅つき)

餅つき(ジュラ紀前より引用) 暮が近づくと、あっちかもこっちからも正月の餅をつく音がぺッタン、ぺッタンと響いた。年末の恒例作業である。隣りに負けないようにたくさんつこうぜと競い合った。 蒸篭や臼、杵、木箱、ざるなど一通りの道具・器具を洗った…

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし      (粉ひき)

粉ひき(ジュラ紀前より引用) 昭和20年終戦前後のことである。よく「はったい粉」を熱湯で練っておやつに食べた。 「はったい粉」は麦を軽く炒って石臼でひいた粉である。「麦こがし」ともいう。これを茶碗に入れ熱湯を注いで練る。わずかに粘り気が出て塊…

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし   (シャコ釣り、メジロ捕り)

シャコ釣り、メジロ捕り(ジュラ紀前より引用) 穴シヤコはヤドカリの仲間である。すしなどのネタになる食用のシヤコと違い、干潟に穴を掘って住んでいる。シヤコにくらべるとかなり小型である。我々が親しんだシヤヨはこの穴シヤコのことで、このことは「家…

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし     (米俵の防空壕)

米俵の防空壕(ジュラ紀前より引用) 昭和2 0年の5月、ある日の昼過ぎ、グラマン戦闘機が宇和島市に急降下爆撃を加えるのを目撃した。ブーンと急に爆音が空から降ってきて丘の向こうに機影が消えたと思った一瞬後、ドカン!という爆発音が響き渡った。続いて…

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし      (レータの浜)

レータの浜での磯遊び(ジュラ紀前より引用) 町は入り江の奥にある。U字型の湾の両岸は岩場と砂浜が交互に並ぶ綺麗な渚が連なっていて、左岸側にはほとんど集落がない。自然のままの渚が続いていた。 リアス式海岸特有の岩場に挟まれて、所々にちょっとした…

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし       (家から釣りができた)

家から釣りができた(ジュラ紀前より引用) 吉田町は四国の西南部、豊後水道に面したリアス式海岸の湾内にある。対岸九州は大分県である。山また山の隙間を流れ下る細流の河口に、わずかな平地を造成して造られた。もともと葦の茂る沼地で葦田(あし、または…