戦国武将・土居清良という男 16

 法戦の城 

 信長に通じ阿波、讃岐を侵した元親は、大挙来襲すること天正7年より十数回、陰惨なる雲は再び宇和海の上を蔽う。元親清良と兵を交える事数十回、悉く破れ術つき、密かに土居の家中に内通を試みたが誰一人応ずる者無し。天正9年橘合戦で敵将多くを討ち取る。天正11年2月三国の兵2万余騎を引受けて奮撃、遂に桜井武蔵を失ったがこれを撃退した。神のために、民のために、議のために死を以て起った清良20余年の戦は、道への聖戦であり、大森城は永遠の法戦城である。

 

  下城 

 全国の大半を統一した秀吉は、天正15年6月大坂石山の城に入り、宇和郡の諸将に下城を命じた。中将公広は諸将を参集して、今日より宇和郡は清良に譲ると建議する。

清良は

「志有難く土居の面目これに過ぎず。何れも清良が下知次第とあるからは、四国を定めんこと必ずしも難きに非ず。然りと雖も天下を相手とし推量を当として戦わんこと末代までの物笑いとなり候うべし」

と諄々として理非を分けて説き諭せば、満座遂に時勢の非なるを知って下城と決した。

「背くべき世をし我から背き来て背きさりける時や来ぬらん」

の一首を名残に天正15年10月26日、時雨色つく大森城を立ち出でて昔もかかる人やありけん、その名を隠宿と言う竹有る崖の下、水潔く流れる所に、ささやかなる庵を結んだ。時に四十二歳であった。 

 晩年

 『土居清良』の筆者竹葉英雄氏は下記の如く最終章を閉めたが、本書のまま掲載する。

 達人は、また時を知っては退いて独り千古の道に生きるであろう。

戦国修羅の巷に四十二年、あらゆる人生の辛酸を味わい、且つその間に処して、為すべき最上の道を為し尽した清良は、今や世に背くべき時が来た。英雄頭を廻らせばこれ神仙である。私は清良にこの晩年の生活あるによって愈々尽きざる敬慕の情を覚える。

深く観ずるところあった清良は、慕う妻子に、

「月の前に変る心を白露の消えては共に何思いけん」

の古歌を書送って庵に入るを許さず、宗案には、

「及ばずながら、許由が跡を尋ね、白居易が昔を案じる楽しみに他事なし。顔淵、東坡、巣父、嚴子陵、山谷、子路、王義之、司馬迂諸々の賢者の楽しみ各別なり。我心に任せるをこそ楽しみとは言うべし」と語った。聖賢の心の跡に人生の深きを探ね、自ら耕して生活し、半窓の明月、南山の白雲を伴とした。悠々たり皎々たる哉 哲人清良の心境!

 衆生を痛む萬斛の慈悲を湛えながら、一世を震駭すべき絶倫の武勇を有しながら、天下を経綸すべき大才を抱きながら、戸田政信、藤堂高虎から如何に本知或いは丸串の城代を以て懇願されても、遂に仕を再びしなかつた。

 世は豊臣から徳川に変り、宇和郡の城主も戸田政信から藤堂高虎、富田信高、伊達秀宗と移り、彼の建設した王道の楽地も蹂躪され、子の如く慈しんだ領民も再び虐政に泣き、百姓一挨も起された。

然し、最早、去来する治乱興亡の彼方に、青山の如く静まれる彼の心は、世と与には動かなかつた。

秀吉を以て人生の勝者とする勿れ、清良を以て敗者とする勿れ、秀吉は清良も言えるが如く、天の勢ある者である。眼を徹して見よ。清良こそは一生を通じて、永遠の道への真の勝利者である。

寛永六年三月二十四日、桜の花の音なく散りゆく夕方、八十四歳を以て静かに神に帰した。

                            完


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土居清良廟(三間町土肥中・新宇和島の自然と文化より)

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    黑糸威二枚胴具足 ー領

(新宇和島の自然と文化より引用・三間土居家に伝来した甲冑)