戦国武将・土居清良という男 9

桜井武蔵に聴く

 清良は勝ち戦の中で不覚を恥じ、西光寺に籠ていた桜井武蔵を呼び、詮議した。
武蔵から見れば若き土居一党は、強きに過ぎた嫌いがあったという。
 武蔵は甲州の軍師山本勘助と同学、清良は参謀として用いた。屡々軍功をたて、後に毛利氏加勢の時、毛利元就が三本の矢・小早川隆景は「土居の花は桜井西塔の武蔵坊弁慶」と称した。武蔵は、清良の器量を歴史上の武将に決して劣らぬ人物と評している。
 本書には、
「諸国を見申し父その外功者共の物語り承り候が、先ず越後の輝虎公、十三歳より心付けある人と申し、十四歳にてその伯父と合戦、自身の采配にて勝ち、それより軍は我得物の様に成し候得ども、心軽き生れ付きにて、諸事さらさらと御座候えば、軍も勝ち負けに構わらず手間入らず、真の大将振り無しと申し候。甲斐の国武田信玄公は、輝虎公とはー際変り給いたる大将、その上家中に能き武士数多ありて軍上手なれども、信虎へ御不孝被成始め、婿今川家乱るる所も見られず我手前ばかり本になされ、酷き大将なれば末続かずと巧者どもは申し候。織田信長公、今程誠の外はびこり出で、この頃は信玄公にも勝れたる様に人々取沙汰申され候えども、これは荒事ばかりにて諸事早合点を被威、底意の我儘知れず、慈悲ありと思えば機嫌の能き時ばかりなり。仏神敬し候かと見れば、誠の外物破りなり。物嫌いかと見れは欲深く、人を能く見知り給うかと見れば、しまりたる者共をば人とも知られず、給う定智知れ申さずと諸功者共申し候。安芸の毛利家も古代とは更り、諸事ぬるく申し立候。阿波の三好長張公は一入見事に諸法度は御座候へども、心大様に候えば何事もはかばかしく参らず、去年は公方義輝公を討奉り、天下の差引有ながら今に五畿内をも随えられ申さず候。

 君を遠国に差置き申し候事惜しきと申して余り御座候。君は少し強きに過ぎ候えども、少人数にて大軍に当るは左様もなくては、かなわ無きかと存じ候。文武両道代々にて候えば危きこと無きと存じ候」と記している。
 更に、清良は文武の道を問いて、武蔵は縷々聖賢の道を説いた。清良はその言を聞いて矛盾極まる乱世の世にその道を行じた。
清良は大石を所々に置き、城中の子供に日に三度ずつ百姓の子供らにも練習させ褒美を取らした。その他、石ころ投げ、飛び飛び、相撲をさせ、また削った多くの木材を太刀で切らし、弓も拵え置き子供らを面白く遊ばせ力を養った。また鉄砲に苦心し13人の鉄砲鍛冶を呼び、4貫500目の大筒に薬25匁を入れる鉄砲を造った。その他に優れた小銃を造り、これは後、秀吉を散々悩ました。

 

清良赫怒
 永禄九年(1567)六月、大友宗麟は、幾多の将士を犠牲にして奪取した宇和郡も土居の奇策で易々と取り返されたことは末代までの恨みことだった。
宗麟は、土居、法華津の両将に密使を送り、西園寺を亡ぼし宇和郡を任せると図り事を構えた。両将は承知と精兵の派遣を請うた所、宗麟喜び200余騎を送ったが、法華津は海上にて散々撃滅した。西園寺公広は宗麟が大群で押し寄せるとの風聞に土居、法華津を恨んだ。7月17日、大友軍は2000余騎で三間に侵入したが、清良は散々に撃破した。
 実充・公広大いに喜び、
「清良はてつしまはしにさも似たりたれに見するも首ばかりなり」
と一首の狂歌を送った。
 7月26日2万余騎が三間郷一帯に押し寄せたが、清良少しも騒がず兵を分かちて、武蔵を先陣として衆を頼んで油断せる敵を散々に斬りまくった。

 本書には、敵将の悪行に清良が激怒するシーンを記している。

 敵将古々和泉守明神山に陣取り、三島の神前にて徴発捕獲せる犬猫鷄等を煮て食す。清良これを聞き赫怒して曰く。
「如何に口惜しき次第なる哉。斯く弓矢取る身を大事に思うも名分の為なり。
今眼前に於て切支丹の徒に一族の氏神を汚され、本朝の神明を軽んぜらるるを見ながら、そのままに置いては命ある甲斐もなし。明くるを待ちて押し寄せ、和泉を我が手にかけずば生きてこの城に帰るまじ。弓矢八幡も我が日頃願いし熊野三山の権現も御照覧あれ」
と怒髪まさに天を衝かん有様に、未だこの如き怒りを見たる事無き家子郎党は、「よしなきことを申したり」と案ず。折しも一天俄かにかき曇り、風は木を折り砂を捲き、一大豪雨と変じ、忽ちの中に三間の平野は一面の大洪水となった。清良小雨を侍って打出んとすれば、桜井武蔵これを諫止し自ら先手となって、一挙に押し崩さんと、明神山の裏手なる雨乞山に上り番卒を捕えれば、
「昨夜の暮方より社殿の内鳴り響き、光りものして大将頓死し、屈強の家の子郎党病み、風雨に食調わず、これ明神の御罰ならん」と言う。
 武蔵、古々陣に斬り込み散々に討てども、数千の大友勢、川向こうにて滔々たる川水に距てられて援う能わず。数百の兵降参し土居に仕えんことを乞う。味方の者また一人あてを卒として賜らんことを願う。
 清良曰く、
「今こそ専ら命を惜しく思い、末代までも違わぬことを言うとも、度々豊後勢打ち向かうに於ては、本国なつかしく打連れて帰るべし。その時土居方総人数は如何程ありなど洩らさんには、大友家に例えても清良程の小身なるものはさのみあらじ。されば敵故恥をかき、敵に見透かされては重き軍なし難し」とて送り帰す。8月2日には大友軍三間を捨てて引揚げた。
 人を識らんと欲せば、宜しくその喜怒哀楽の情の発するところを見ねばならぬ。白刃を踏み剣戟を迸らしめて常に悠々迫らぬ清良も、事、神明に及んでは赫怒することかくの如し。嗚呼、至誠神の如く、神人感応す。見よ。忽ちにして古々和泉の倒るるを。清良の憤りはまた神の憤りである。