戦国武将・土居清良という男 10

 永禄九年(1567)八月、今度は一条が来襲、清良敢えて応戦せず悠々と日を暮らしていたが、西園寺実充再三の出兵の命にやむを得ず250余騎で700騎を散々に追い返した。実充は度々の功労で清良に一族滅亡の石城を与えた。すでにこの頃は土佐、豊後共に土居の楓の旗を恐れること甚だしかった。

 清良は戦国の世に唯独り千古の道を抱き、大森城を法戦場とし、民を安じ傭主を奉じ、ただやむを得ずして義に戦う寂寂たる道であった。

 しかし、ここに登場するのが21代長宗我部元親で永禄十年五月、一條家の将山内外記に援軍200余騎を送った。だが、三間の百姓軍400人、里侍がこれを撃退させた。永禄十一年元親は南御荘を攻めている。

永禄十一年の冬、土佐では長宗我部元親が本山氏を討って土佐を統一する勢いであった。後は安芸國虎と西の一條兼定(5代)だが、一條には恩義があった。

 

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(長宗我部家と一條家)

 21代長宗我部元親の末弟親房から17代目の当主友親は2012年「長宗我部」という本を出版した。

 あらすじは、次の通りである。

 長宗我部家は「秦の始皇帝」が遠祖という。2千年70代に亘る人間の歴史が滔々と流れている。始皇帝11世の孫、功満王が朝鮮を経由して日本に渡来、帰化した。時は過ぎ秦酒公(はだのさけぎみ)、秦河勝と続くが、河勝は聖徳太子に仕え、物部守屋を討って信濃國を与えられた。やがて起こった保元の乱信濃にいた秦能俊は崇徳天皇側につき敗北、遠流の地土佐に移り住んだ。

能俊は「長岡郡曾我部」に隠れたが、これが長宗我部氏の祖となった。秦河勝から600年が過ぎている。応永年間(1390年代)15代元親は、中央政権とのパイプ作りで京の一條家と交流して都の礼儀作法などの教えを受けた。

 応仁元年(1467)応仁の乱が起る。室町幕府足利義政の時代で戦火は全国に広がり戦国時代に突入する。お公家様の一條教房(初代・関白を務めた)は戦火を逃れて土佐に下った。教房が船に乗って室戸の甲浦に着いた時、長宗我部文兼は御座所を用意した。その後教房は、一條家の荘園がある土佐中村に入った。

 土佐も戦国時代になると文兼の頃と違って、群雄割拠で本山茂宗など土佐7雄が競い合っていた。永正5年(1508)5月の戦で本山連合軍の襲撃により19代兼序は岡豊城を攻められ総ての領地を失った。兼序は後継ぎの6歳千雄丸(国親)を若き家臣ら150人と一條家に逃した。嫡男に長宗我部の将来を託した兼序は、終夜酒盛りをやり、夜明け最後の一戦で華々しく散った。(まるで石城陥落の土居一族のようである)

 一條房家(教房二男)は千雄丸を保護し育てた。永正15年(1518)房家は千雄丸を元服させ国親と名のらせた。国司として房家は本山らと調整を図り国親を岡豊城に戻した。「野に放たれた虎」国親は長宗我部の再興に執念を燃やした。

 天文八年(1539)一條房家が亡くなり、房冬が後を継いだ。21代目元親はこの年に生まれた。天文二十四年(1555)宿敵本山梅慶が病死した。翌年弘治二年、国親は本山攻略を始め22歳の元親は初陣だった。本山茂辰を追放した国親は病に倒れ岡豊城内で死去57歳だった。

やがて元親は本山茂辰の嫡男親茂と闘うことになるが、茂辰の病死で親茂は降参した。これが、前出の永禄十一年の冬だった。

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 群雄割拠の時代、天文年間に生まれた傑物は、織田信長、天文3年(1534)豊臣秀吉、天文6年、徳川家康、天文11年、長宗我部元親、天文8年、土居清良、天文15年(1546年)である。

時代はやがて弘治、永禄、元亀、天正の戦乱クライマックスに続く。