戦国武将・土居清良という男 11


 清良、西園寺・一條の和議を調う

  永禄11年4月大友軍1000余騎来襲。7月一條来襲。永禄12年4月大友一條呼応して来襲。元亀元年(1570)大友一條、御荘勸修寺を海陸より攻める。清良はこれに加勢、西園寺公広に出陣を乞うが援軍来ず。敵は諸城陥り放火して三間に侵入した。清良留守に百姓、女、童500余人奮闘防戦す。玉木源蔵の母・巴は敵の将、石黒主膳を討ち取る。清良は御荘より帰ってこれらを撃ち払った。

 元亀2年、西園寺、一條和解の機運が生じた。長宗我部元親の野心を知った尊家は、清良に元親を討たんと和睦を申し込んだ。清良は元親を今のうちに討たねば必ず一條を亡ぼし、将来の災いになると、西園寺公広に注進した。だが黒瀬城内は奸臣はびこり忠臣疎んぜられた。果たして一條勢は深田中野を囲んだ。元親勢2500余騎が向かえば公広一戦もせず引退く。土居勢豪雨を衝いて奮闘敵首200を得る。その後、土佐勢多数に奇計を以て翻弄、同士討ちをなさしめ土佐勢戦に倦む。

 この時、清良は一條本陣に生鯛十尾を贈った。尊家は恐悦し、

 「あすの夜をまたでめぐらすさか月の光さやけき旅の空哉」の一首を送った。

 元亀3年正月、ついに清良は法華津と談合して西園寺、一條の和議を調えた。清良の苦心ここに成って南海の激浪暫くは無事に、領民はその生を楽しむを得た。 

 道後加勢

 元亀3年7月、道後湯築城の河野道直は叔父の安芸、毛利輝元と確執を生じ合戦となる。公広は清良に加勢を命じた。清良は200余騎で戦う事7日、土居勢の武力で毛利勢を追い払う。河野父子大いに喜び3日間慰労の宴を張った。

 元亀3年9月、織田信長の勢いに依って阿波の三好将監は北伊予に侵入、讃岐勢も随って三津沖より道後を攻める。清良再び出陣、将監追いつめられ兵を引く。

 伊勢・京都参拝

 本書『土居清良』には、

 私は思う。若し清良公をその時その地にあらしめば正成公となり、正成公をこの時この地にあらしめば清良公とならんと。私は幼時より妙にこの私の最も尊ぶ二人が心の底に於て一人となつている。土居氏代々の勤王の志は清良にも燃えていた。然しその時と所とは正成の様に起つ能わざらしめた。近衛公より後清良七ロの槍と称せらる戦を祝して寄せられた文を見る時、清良勤王の消息が窺われる。

 三好將監を破った清良は、今や一条との和なりて、また後顧の憂いもなくなったので年頃の志を果さんと、道後より直ちに股肱二十七騎、郎党六十人を随え、伊勢京都参拝の旅に立つた。途中来島の城主、村上天皇の末流で村上飛騍守通総の招待に応じて立ち寄つた。通総は日頃より清良を敬していたので、これを光栄として、歓待を尽し、兵を論じ武を講じ数日逗留した。

 三月五日来島の用船五艘に分乗し瀬戸内海の風光を賞しつつ、途中六度も海賊船を撃ち退け、大阪伝法に上陸、先ず赤坂金剛山の遺跡を尋ね楠公の忠魂を弔うた。

この時円長と言う山伏、「音に聞えし天下を引受けたる楠が籠りし城程にも無し。無下に浅間しき体哉。古人の戦いは手ぬかりおおかりしや」と眩くを聞いて清良「それ城は太刀の鞘なり。大将は太刀なり。如何に鞘見事にても太刀鈍ければ益なし。この城浅ましくてこそ正成公の誉愈々心深うなれり。勝軍地蔵摩利支天化身の名人を、汝等が口にて楠杯と云う事、天に背けり。その方は毎年代参して伊勢熊野高野に通う身が、此度初めてこの城を見たる気色なるは侍の道にあらぬぞ」と気色を損じて窘めた。

 それより高野に登り六親の事は言うに及ばず、三代以来討死の被官共に一万本の仏(卒塔婆)を建てさせ、病死の者共にも二千本の供養をした。更に道を転じて岩田川に身を淨め、日頃信仰厚き熊野権現に詣でて武運長久を祈った。ここは土居氏発祥の地である。ついで那智の滝を見物して

「滝津瀬は代々変らぬ響あれば流の末も頼母しき哉」と懐をやった。

伊勢神宮に額づきて遠く本朝(朝廷)の所以を探ね、京都禁庭の御衰微を拝した清良の思いや如何に。已に正成の跡を弔い、正成と俱に兵を挙げた備中守淸時の末の清良である。

徳川氏に入って出来た『清良記』には勤王の志に至りては書く所がない。

燃ゆる思いを抱きながら、戦国僻南の地に在りてはまた遂ぐべき道もなく、僅かに時を得て難路百里を遠しとせず、伊勢京都に額づきて僅かに懐いをやった清良の心こそ、まことに悲しくも床しき限りではないか。

 

註 清良記は全三十卷、清良の家臣土居水也が清良公を慕うあまり、悪疾に指を失った手に筆を結びつけて書きしものと言はれている。清良記の各所に「我田引水と言われんも事実なれば」と断っている。私は清良記は未だ清良公の偉大さを遠慮して書き尽していない様に思われる。

と記されている。

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~新宇和島の自然と文化(1)より~