2019-09-01から1ヶ月間の記事一覧

戦国武将・土居清良という男 17(完)

8月6日第1回目のブログアップから始まった「土居清良」伝は漸く終わった。 『清良記』は、土居清良没(寛永6年【1629】)の約20年後、土居一族の末裔で三島神社元神官・土居水也という人が、長い歳月をかけ全30巻を完成させたと伝えられている。 本書「土居…

戦国武将・土居清良という男 16

法戦の城 信長に通じ阿波、讃岐を侵した元親は、大挙来襲すること天正7年より十数回、陰惨なる雲は再び宇和海の上を蔽う。元親清良と兵を交える事数十回、悉く破れ術つき、密かに土居の家中に内通を試みたが誰一人応ずる者無し。天正9年橘合戦で敵将多くを討…

戦国武将・土居清良という男 15

不義を許さず 天正2年中、清良は長宗我部元親の宇和郡侵攻に対し幾多の戦いを強いられたが、総て清良の予言が的中し敵を退けた。中でも近畿まで名を轟かせた「土居七口の槍」という合戦は、1日12度の激戦があり、敵の大将山内外記以下実に785人を討った。 元…

戦国武将・土居清良という男 14

法華津一族 ブロガーの出身地は宇和島市吉田町本町であるが、母の実家は吉田町玉津だった。幼少時、法花津(法華津)の浜で海水浴をしたことを覚えている。その浜の背後の小高い山に法華津城があった事は当時知る由もない。 自著『トランパー』『吉田三傑201…

戦国武将・土居清良という男 13

民と倶に飢えん 元亀3年、関西地方は稀なる大凶年だった。清良は宗案と策を立て、直ちに城中の兵500人を出して百姓に加勢し11月初めまで麦を蒔き終わった。清良は土居左兵衛に領米9割方を分けよと命じたが、「来年は元親攻め来たらん、籠城の用意なくてはか…

戦国武将・土居清良という男 12

一条の恩に報ゆ 本書には、 元親は一条の股肱、久札城主・佐竹信濃守を取り込まんとしたが、尊家に発覚し 起請文を書き人質を出した。その後人質に密計を授けて次第に旗下を籠絡して謀反を諮った。遂に天正元年11月大挙して尊家を欺き30余人を下田より船に投…

戦国武将・土居清良という男 11

清良、西園寺・一條の和議を調う 永禄11年4月大友軍1000余騎来襲。7月一條来襲。永禄12年4月大友一條呼応して来襲。元亀元年(1570)大友一條、御荘勸修寺を海陸より攻める。清良はこれに加勢、西園寺公広に出陣を乞うが援軍来ず。敵は諸城陥り放火して三間…

戦国武将・土居清良という男 10

永禄九年(1567)八月、今度は一条が来襲、清良敢えて応戦せず悠々と日を暮らしていたが、西園寺実充再三の出兵の命にやむを得ず250余騎で700騎を散々に追い返した。実充は度々の功労で清良に一族滅亡の石城を与えた。すでにこの頃は土佐、豊後共に土居の楓…

戦国武将・土居清良という男 9

桜井武蔵に聴く 清良は勝ち戦の中で不覚を恥じ、西光寺に籠ていた桜井武蔵を呼び、詮議した。武蔵から見れば若き土居一党は、強きに過ぎた嫌いがあったという。 武蔵は甲州の軍師山本勘助と同学、清良は参謀として用いた。屡々軍功をたて、後に毛利氏加勢の…