2018-02-01から1ヶ月間の記事一覧
「吉田藩昔話」には、 六軒屋(御船手)の上を聖人山と称す、昔から藩の牢死者、旅人の行き倒れ者の 死骸を埋めし所で聖人寺に住ませし日述聖人の示寂後ここに埋葬せしよりその名がある」 と記されている。
「吉田風物帖」もあとわずかになった 朝治は神社仏閣と犬尾城(犬日山)をたくさん描いている 第29銀行は伊予銀行の前身、当時としてはモダンな建物 本町二丁目の角にあったが子供には縁の無い所だったのであまり記憶にない
甲斐順宜著「落葉のはきよせ」には、 五龍山明淵寺 元大鏡山と号し真宗東派なり、往昔大なる石南樹ありその傍に 地蔵の堂を営む、後萬治二年(1659)伊達宗純公再興せらる。 とある このお寺は裡町辺りか?
22日は朝からまた雪だあ、Gゴルフ中止 十余一の池にカルガモか?緑の頭、黄色い口ばしの一羽だけ飛来 今日は池の周りにスマホに熱中のカップルなど多い、ポケもんか? 梅の花など観賞する余裕もなし実に嘆かわしい 一句 梅とカモ色香もうれし名残り雪 一首 …
嘉永七年(1854)吉田藩の忠臣・安藤義太夫継明を祭って御舟手の海蔵寺に廟所が造られた 吉田騒動で自刃後、霊験あらたかで土佐、九州など遠方から参詣のため、門前市を成したという 村井幼稚園児は今でも海蔵寺に眠る村井保固、安藤義太夫の墓を参るそうだ
大正12年4月「吉田三傑」は吉田町立吉田中学校を創設した その後山下女学校と併合、吉田高等学校となるが、今ではこの画の面影はない ブロガーは機械科で学んだが、町内の者は少なく高知の県外も含め町外が圧倒的に多かった 村井保固翁の定めた校訓は 「自律…
入学式の時に母親と校門の桜の下を歩いたことを覚えている 今は門柱だけが残っている 天文台があり、理科の標本もいろいろあり田舎の学校にしては 贅沢な設備だったが、これも海運王・山下亀三郎翁の寄付であろうか? 1年の担任先生が川島女史、5-6年が船田…
郷里の関東ブロック集会で恵比寿に行った 新市長は日本一の大男(市長では)190cm、100kg 新進気鋭だが地方創世の難問題に取り組むという、人口減など深刻 ブロガーは本(トランパー)の紹介、新人(新進気鋭女史)の紹介をした 元藩校寮の学生も…
八賢神社とは「八人さま」の事だろうか 大工町の小高い丘に子供の頃、行った覚えがある 後で分った事で、山田騒動とよばれる実話を司馬遼太郎が 短編「重庵の転々」に取り上げた 医者から身を起こし藩の重鎮となった山田仲左衛門を 誅殺せんとした足軽ら八名…
4歳上の盆栽名人と千葉ニューで食事する 我孫子でサツキを45年やっている 頂いた専門誌の記事には、始めた頃サツキの花に魅せられて 盆栽はサツキ一本で行こうと決めたそうだ 丹精込めコツコツと年数をかけて仕上げる様は 72歳まで勤め上げたご自分の会社経…
朝治の絵・詞は犬尾城(犬日山)を扱ったものが多い これも犬尾山をバックにした絵だ、山をよっぽど愛していたのだろう 犬尾城の影が水に浮かんでいる描写は素晴らしい ブロガーは絵については素人だが、これは朝治作品の中でも上位ではないかと思う鶴間橋の…
(安藤さん)と呼ばれていた夏祭りは人出が多く、境内で御神楽や演芸などがあった 横堀河原に盆踊りの舞台、桟敷を作り、フィナーレは三ツ輪橋の仕掛け花火(ナイヤガラ滝)に歓声を上げた 潮の満ちた川面に浮かぶ盆踊り、花火は幼き頃の想い出である 「宮政…
吉田藩昔話には 「御藏前から汐田なる水溜を隔て、御茶倉があった、倉の一隅に小物成奉行證人 下代の役所を設け、士分の家へ茶、大豆、紙、眞綿、麻苧等を分與せし所で、御茶倉の北に 佐竹藤摩の住宅があった、」と記されている 御蔵前はスーパーフジがある…
南森八幡神社は吉田一帯の氏神として立間に鎮座されている ブロガーはほとんど覚えていない 御神輿の御幸は寛文4年というので314年前から続いている 山車のお練り、牛鬼、ホタなど吉田大祭の名物となっている
市のシニアカラオケ大会でHO会の応援隊 翌日はHO会新年会で3年間のMovie上映 あれやこれやで1月はあっと云う間に過ぎた 2月もゆっくり出来ない リハビリ、書道、Gゴルフ、ウオーキング、MJN 執筆、ブログ更新、歯医者、病院、東京2回行き …
マラソンみて花の丘へ 紅梅が一輪咲いた 河津桜も一輪咲いた 黄色い蝋梅は満開、いい香り コンビニでスリムのタバコ2箱買い 帰ったら1箱しかない、ベンチで落としたか? 早速戻ってみたらヤッパリ、ベンチの下にあった 左手の感覚が鈍くなった、ああ情けな…
吉田中学の先が鶴間湾で小高い山にお寺が有る 山号:補陀山、・宗派:臨済宗妙心寺派 俗称「サルボ山」の麓に位置する。 かつては吉田十二景に選ばれた桜の銘木があったらしい。 とネット検索で見つけた 朝治の版画、蘇鉄は鮮明で分かりやすい