戦国武将・土居清良という男 14

法華津一族

 

 ブロガーの出身地は宇和島市吉田町本町であるが、母の実家は吉田町玉津だった。幼少時、法花津(法華津)の浜で海水浴をしたことを覚えている。その浜の背後の小高い山に法華津城があった事は当時知る由もない。

 自著『トランパー』『吉田三傑2017&2019』で明治、大正、昭和の近代史に触れてふるさと「吉田」の歴史が少し分った気がしたが、『土居清良』を読んで更に郷土の歴史を遡ることになった。

 法花津という地名は、母の実家でもあり親の話にしばしば出て自然と使っていたが、「法華津」という歴史のある名称だった。

 昨年NHKで姓名「法華津」を取り上げる番組があった。1964年東京オリンピックに出場した馬術法華津寛氏が家宝の「鞭」を持って現れた。寛氏の祖父・法華津孝治氏は、吉田三傑の一人村井保固の誘いで、森村組に入った。山下亀三郎と同時代の人物で、村井保固伝の発起人、息子の孝太は外務省から極洋捕鯨の社長になった。

寛氏は法華津家伝来の鞭の由来が分からないというので、吉田町の秋田女史(吉田藩の古文書を読む会・主宰)が説明に登場、中学の同級生が突然映ったので驚いたが、要すれば、ムチに吉田藩の定紋があり馬術指南の藩士が殿様から特別に授かったものだという。

番組最後に司会者は、かつてルーツは船を乗りこなし、その後馬を乗りこなし一騎当千の強者と持ち上げていた。

 法華津城は目前が法花津湾で宇和海に面し、その先が豊後水道である。法華津すなわち法華の港という地名は当時この地方の大勢を占めていた天台宗寺院が、その根本教義としたところの法華経に由来するものと云われている。

西園寺氏の被官としてこの地に下った清家氏が、その地名をとって法華津氏を称した。

 法華津氏は、戦乱の世、法花津湾に軍船を浮かべ南伊予の海岸部に乗り出す水軍として名をはせた。

  郷土誌『新宇和島の自然と文化』には、

 豊後大友氏の侵攻が最もはげしかった天文~永禄約四〇年の間に、相争うこと八十数回に及ぶといわれ、西園寺にとって第一線の防塞であった法華津の地は、大友の側からみてもまた、黒瀬攻略、宇和併呑の鍵をにぎる第一の要害だったのである。

 天正一五(一五八七)年秀吉の四国平定によって、宇和郡を戸田勝隆が預り、大洲の地蔵が岳に入城したが、これに先だち、土居清良、法華津秋延、御荘勧修寺の三人と西園寺の在城が許された。法華津氏歴代中の雄将清家播磨守範延は、土居氏とともに豊後大友氏の来攻を防いで歴戦数十度、常勝を誇ったが、とくに海戦を得意としたその一族の活躍は、伊予水軍史上に輝かしくその名をとどめている。と記されている。

 

 馬術法華津寛氏は2020年東京五輪に出場すると、御年79歳で五輪史上最年長となる。

祖父法華津孝治氏の生まれ故郷の吉田町は、昨年、西日本豪雨で甚大な被害が出た。玉津地区も山が崩れた。法華津城は今ではみかん山となっているが町民は復興に向け立ち上がっている。

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法華津城が中央に見える(ブロガー撮影)

 

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玉津のみかん山(2016年撮影)

(ブロガー蜜柑山を登る)

2016年春、玉津の従兄弟が蜜柑山を案内する。トラックで細い農道を登るが、ヒヤヒヤものであった。山の上は法華津峠、高森山が見える。散水、消毒はコンピューター制御、みかんはモノレールで下ってゆく。2年後、先祖が築いたミカン園を豪雨が襲った。自然が相手の商売は厳しい。