戦国武将・土居清良という男 4

石城陥落(2

 

 清晴討たれ石城は桐の一葉先ず落つるの感があった、西園寺実充は密かに石城援軍の150余騎を呼び返さんとした。これを知った早雲は厚くもてなし黒瀬に送り返した。

 土居家の居城大森城を死守していた土居備中守清貞は、石城の急を聞いて(我等一族は唯義にこそ死せん)と9月17日の暁に城を出て大友勢の勇将を討ち取り、歯長峠から楓の定紋を翻して石城目指して馳せ下った。清貞は法華津峠に陣取る敵を風下に誘い寄せ西風烈しきに放火、60日の干天に乾いた草木が燃え上がり焼死にする者数知らず。側面からは清永、清象、宗真の兵が討ち入りて大友軍は散々に討ち果された。

 土居一族の知略と勇武に不利を知った大友軍は、この干天で城内の水少なきを知り水絶つ計に出た。

 7月12日以来雨は降らず9月18日には城中用水に事欠くに至った。事ここに及んで徒に水に窮して死せんよりも、華々しく土居一族の最後の働きを見せようと、清貞を総大将に一騎当千の一族郎党100余騎が鶴翼の陣形で大勢の敵を少数で囲んだ。接戦すること数刻、討ち死にする者城方50余騎、豊後勢500余騎。

 翌日大友軍ことごとく石城を包囲し、仕寄を構えて激しく攻めかけた。24日夜、清永、25日忠宗、為友らが襲撃するも翌日には仕寄は元の儘となる。26日夜遂に西郭の井戸横穴穿たれて水涸れ果てた。28日夜、手負いの将士60余名、意気尚衰えず最後の合戦と打って出る。敵将臼杵七郎、日出六左衛門、田原八郎兵衛など討ち取りその外雑兵数知らず。城方も清永の子清治、清象の子次郎など38騎討たれ20余人の帰城兵も負傷者多く、士気漸く阻喪した。

 されど早雲は色にも出さなかったが、城中評議の結果、斬り死と決めた。ここで大加美夫人は、斬死は下良のこと、心身疲れ生け捕られる者や甲斐なきものに首取られては恥辱を晒す。静かに自害して敵に頭を取られないことを高名にせよ、と子供らを諫めた。更に石城落城の後は西園寺黒瀬城が落ちるは必定、宇和郡は大友の旗下となる。されど大友は海を隔てて不便なれば土佐一条尊家は大友の婿、何事も一条に任せる。一条家の家老土居近江守家忠は清貞の婿、敵にして敵にあらず15歳の清良に亡命させ時を得て土居家再興をせしめると云うと、皆同心とて斬り死を思いとどまった。

 女傑大加美夫人は十四男薄雲・鉄首座を呼び寄せ、

「一人出家すれば九族天に生ず。汝よく菩提を弔い、且つ清良一人を人となし候え。重代の太刀、その他の家宝金銀など焼き捨てんは本朝の費えなり。敵に取られんも口惜し。これを地中に埋め、来春一族を弔う体にて掘り出し、清良生長の後に授けよ」と、後事を嘱すれば鉄首座今はこれ迄なりと思えば立ち去り難く涙するのを、

「薄雲、それ程なる者とは思わざりし。人の上に無くては不叶、まして武士たる者のかかる事珍しからず。暮れては道の程計り難し。急ぎ候え」と送り返す。

大加美夫人は清良を呼び、暁に汝落ち行くべしと云い、若き大剛の者をつけるのは余所の家中にて感状を10,20も取るべきもの也、汝らが男盛りに軍せば如何ほどか心地よからん、我はその時を見たしと言い渡した。

 

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立間郷の山城