7月のムービー

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千葉ニュータウンの7月


久しぶりに千葉ニュータウンのムービーを制作した。

 マンション前の十余一公園はクローバーが群生しグラウンドゴルフの練習が出来ない。市の公園課なんとかして!今日はメンバーで近くの公園の清掃を行うが30分で解散した。

十余一公園からビジネスモールまでデジカメ持参で散歩する。大手の計算センターなどの建物は建築デザインを競っているようだ。CNT中央駅の東側は倉庫群があり物流の拠点となっている。災害に強い所なので、緊急物資などの需要があるのか外資系の倉庫会社が多く参入している。倉庫の最上階まで車で搬入搬出が出来るので省人化を図ている。海運のRORO船と同じである。47年間の船屋稼業が中々離れない。

夜からまた雨のようだ。今年は日照時間が少なく野菜、果物が心配だ。我がマンションのガーデニングも毎週数人で手入れをして花数も多種である。

 

 

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同級生が主宰している俳誌「加里場」が届いた。小生の拙句も掲載されていた。

題は「永良部百合」

  白無垢を装うが如しえらぶゆり

  凛と咲く聖母マリアのえらぶゆり

 因みに主宰・井上論天の俳句

題は「尋ね人」

  くらげ群る赤灯台の遭難碑

  乙姫の命もて海月の尋ね人

夏の季語「虹」で渥美清の句が紹介されていた

  お遍路が一列に行く虹の中

ああ、良い句だなあ

 

坂村眞民先生をこよなく愛する人々

 5月のある日、横浜にある「宝積寺」を訪れた。母校吉田高校の先輩からのメールがきっかけだった。この寺のホールで眞民先生を敬愛する人たちは詩の朗読や演奏会を開いた。先輩の娘婿はサックス奏者、亡き母は西予市明浜町俵津の人。母の郷土で彼は詩人・坂村眞民を知る。

コンサート第二部では眞民先生の詩をアマチュア劇団員が朗読し、女性歌手が唄う。『二度とない人生だから』など数詩が披露された。

 このお寺の境内には先生の詩など多くの石碑があった。先生は平成2年にお寺を訪れ詩を詠んだ。ホールの中も眞民先生の書や詩が満載だった。先生に心酔した年輩の方は、全国400の詩碑を見て回ったと語ってくれた。北海道には「念ずれば花開く」の12メートルの巨大な石碑がそびえて居るという。上総一ノ宮には7つの詩碑が数カ所のお寺にあるそうだが、今度行ってみよう。

 元号が「令和」になったが、昭和最後の日、NHKは総ての番組を変更し眞民先生が出演した「念ずれば花開く」を終日放映した。坂村眞民の詩は多くの人に愛されて、世界に730もの石碑が建てられている。世界的、国民的詩人であることは間違いない。

 この日、書家の中澤京苑女史が同行してくれた。彼女は『トランパー』題字の揮毫者で坂村眞民ファン。昨年、眞民先生が作詞した吉田高校校歌を書に認め、関東支部同窓会に届けてくれた。

先日、旧友が集まり同級生が印象的な話をした。

先生は校歌を創る時に国安川に手を浸け詩想に耽っていたそうだ。吉田高校同窓会では京苑さんの書を見て皆で校歌を唄った。水害のあった年だったので最後に「がんばれ吉田!」と絶叫した。

 

(坂村眞民 年譜) 出典:坂村眞民記念館

明治42年1月6日熊本県玉名郡府本村(現・荒尾市)に生まれる。戸籍名・昴(たかし)

昭和2年18歳、伊勢の神宮皇学館(現・皇学館大学)に入学。

昭和6年3月、神宮皇学館国語漢文科卒業。

昭和9年4月、25歳で朝鮮に渡る。全羅南道順天女子校の教員。

昭和13年8月、第1回招集を受ける。

昭和16年4月、全羅北道全州師範学校に転勤。

昭和20年8月6日、第2回目の招集、終戦、11月朝鮮より引き揚げ熊本に帰る。

昭和21年5月、四国に渡り愛媛県三瓶町の山下第二高等女学校教諭に着任。

昭和25年4月、県立吉田高等学校に転勤。

昭和26年、臨済宗専門道場「大乗寺」河野宗寛老師に参禅する。

昭和30年46歳、網膜炎、内臓の病気で生死を彷徨うが、利根白泉先生の助力で大難を克服。

昭和31年4月、県立宇和島東高等学校に転勤。

昭和37年「詩国」を発刊する。

昭和40年4月、県立吉田高等学校に転勤(2回目)。41年定年、非常勤講師。

 *ブロガーは「古文」の授業を受ける。

昭和42年4月58歳、私立新田高等学校の講師。

10月伊予郡砥部町に居をさだめ、以後、NHK等の放送局に出演。全国に癒しの詩人として知られていく。

全国の刑務所に「自選坂村眞民詩集」を納本するなど社会福祉活動を行い、数々の出版物が世に出ている。

 平成18年12月老衰のため永眠、享年97歳。

 

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新一万円札とトランパー

 


トランパー亀三郎登場!にも書いたが、業界紙「内航新聞」に(新一万円渋沢と海運王山下)と題し寄稿した。

渋沢栄一という人物は当たり前だが凄い人、トランパーの山下亀三郎が口述した本「沈みつ浮きつ」に詳しく載っている。子供が50人いたという武勇伝もあるらしい。

亀三郎は、渋沢を初めて四国にお招きした男である。

王子の渋澤邸まで行って松山ご訪問を懇願している。神戸まで随行し、馴染の料亭で渋澤をもてなしている。どんちゃん騒ぎの好きな亀三郎はカッポレを踊ったに相違ない。

松山までは船をチャーターした。やることに卒はない。

亀三郎はかつて神戸/東京間の特急列車の展望車に陣取り、各界の重鎮を相手に酒酌み交わし親交を深めたそうである。当然、その道中でいろいろな情報を仕入れていたのであろう。

亀三郎は無学といっているが、兎に角、人たらし、人あしらいは右に出る者が居ない。帝国大学などの優等生を雇い、ヘッドトレードは当たり前だった。お客さんに用事があるとすぐに飛んで行った。フェースツーフェースがモットー、或る時は軽井沢、或る時は神戸と脱兎の如く全国を飛び回った。ノロ亀が兎になった。

しかし、渋澤が愛媛に行ったのは、恩顧ある元宇和島城主・宗城侯や娘婿の穂積陳重に縁があったからではないだろうか。

渋澤は日本資本主義の父と云われたが、亀三郎は日本資本主義の子である。

吾が母校に渋澤、穂積の石碑があるが、亀三郎と新一万円札の機縁は郷土の人には誇りに感じるであろう。

(令和元年6月3日付 内航新聞より引用)

 

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宇和島ムービー


宇和島ムービー

 令和10連休に宇和島に帰った。

駅のそばに「パフィオうわじま」が4月オープンした。PAFIOはパール、フィッシュ、オレンジの頭文字をもじったもの。中々快適な空間で、1階は広々してゆっくり雑誌がよめる。

宇和島の画家、クリエーター「大竹伸朗」のコーナーがあった。豪雨被害支援のTシャツをデザインした人だ。関連書籍が一杯あり拾い読みすると、意外や吉田町に関係することが書いてある。彼は東京の人で北海道からロンドンまでTRAMP(放浪)し苦労している。芸術活動のキッカケは、吉田町知永にある造船所の廃船をもらい作品にした。隣の宇和島市大浦に拠点を持っているが、そこにある覗き岩が「パフィオうわじま」大ホールの緞帳になっている。宇和島に移り住んで30年、宇和島が好きになる感性が素晴らしい。

5月20日夜、高校同級生の太田聖士サックス奏者がジャズコンサートを開いた。大ホールには200人が集まり大盛況だったという。吉田中学同級の女子も来ていたらしい。

昼は母校に錦を飾った。関東からついて行った同級生によると最高に盛り上がったそうだ。やはり生徒には難しい話より演奏会の方が楽しいに決まっている。

パフィオ2,3階は図書室で郷土コーナーには吾輩の「トランパー」が2冊置かれていた。郷里の事を調べるには丁度良い環境にある。

新装なったスパーフジに寄った。田舎料理の丸寿司、ばあちゃん巻き寿司は久しぶりの味で懐かしい。フカの身ざらしを探したが無かった、残念。

宇和島を始め南予地区はかつて消滅可能都市と云われたが、確かに人口は減り若者は都会に出ている。地元に働く会社がない、吉田町に6つある小学校も一つに統合するらしい。

ここ数年宇和島、吉田近辺を探索したが、文化的資産、観光資源は多い。これからは観光に力を入れていくべきだ。南予は寂れないし消滅しないと考える。ふるさとの若者よ、がんばれ‼

愛南町と清家吉次郎

 

『清家吉次郎伝』を執筆したのは、正岡子規に縁がある俳号「里雪」、元新聞記者で著述家の阿部利行である。

伝記編纂が決まると山下亀三郎翁は準備金と旅費を里雪に渡した。早速、里雪は清家の生地吉田町喜佐方へ向かった。吉田、宇和島で取材を重ね帰京後、伊香保温泉に籠って伝記を書き上げた。

阿部里雪は20歳で子規の幼友達「柳原極堂」が社長をしている伊予日日新聞に入り、当時愛媛県議会で「霹靂の舌」と呼ばれた名物男の清家を取材した。昭和3年極堂を慕って上京、五百木飄亭の「政教社」記者となった。極堂の俳誌「鶏頭」の編集で正岡子規門下の人たちと交流することになる。

その後、郷里の伯方島に帰った里雪は、古稀の時に『子規門下の人々』を愛媛新聞に連載したが、高浜虚子の項で俳人・清家の名が出ている。それは松山の記者時代の貧しい生活の事を書いているが、要は(清貧の士)についての記述で、松山時代は柳原極堂、岩崎一高、村上霽月、清家吉次郎が清貧の士、東京時代は五百木瓢亭、河東碧梧桐、寒川鼠骨などその類であった、と言及している。

里雪は、清家の晩年に俳句仲間の五百木瓢亭が詠んだ半折を持って病床を訪ねている。清家は俳号を「無逸」と称し俳句が盛んな吉田町の句会で気焔を揚げた。里雪も俳句をやり、清家や県の重鎮らとの句会によく参加したという。

里雪は伝記「病床の子規を訪ねて」の項で、明治33年清家が根岸の子規庵にゆき、子規から俳句の手ほどきを受けたと書いている。里雪は明治26年生まれなので、当然その逸話は子規門下の誰かから聞いたものだろう。

 さて、前置きが長くなったが、清家が愛南町に赴任中、土佐柏島の学校を訪問した事がある。その見聞記は病床の子規を感動させ日本新聞「病牀六尺」第一話に採用したことである。

ブログ本「吉田三傑」と重複するが、子規との機縁は根岸を訪問してから後も続いていた。里雪がこれを知っていたら伝記に当然載せるであろうが「子規門下の人々」からも聞いていなかったのであろう。

これには訳がある、清家は愛媛県の視学で他県の教育事情を海南新聞(現愛媛新聞)に投稿するのには「せき生」というニックネームにせざるを得なかった。これでは誰も分からない。今でも子規研究家の間では、この逸話を誰が書いたものか特定に至っていない。唯一「せき生」を清家吉次郎と断定している人物がいる。(2016.10.3ブログ参照)しかし、状況証拠だけで確証がない。久良湾に着水した紫電改パイロットと同じである。

清家が5年間過ごした御荘平城は、交通の要衝で宿毛街道の要となっている。柏島水産校の校長は、修学旅行で大坂・下関・別府から宇和島港に帰り、オンザウエイの御荘平城に清家を訪れている。その話に感心した清家は、遥かに望む柏島まで行ってみようか!と明治35年4月頃歩いて視察の旅に出た。(のであろう)

今回、愛南町にきて初めて分かった。平城の山から遠くに柏島が望めるのである。

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120年前、アクセスが乏しい時代に清家が意を決して校長に会いに行ったことは、教育者としての興味があったのであろう。

清家の長文の投稿記事を子規に送ったのは、海南新聞の主筆柳原極堂で、それをエッセイに取りあげた子規の教育に対する想いは晩年でも消えることはなかった。

 

 

愛南町へ行く(紫電改)

今年のゴールデンウイークは、平成から令和へ元号が変わることで、10連休となった。吉田中学校の同級会が宇和島であり45名が集まった。友達曰く「この11年間に8回も参加したよ」マア、よく続く同級会である。

宇和島からバスで愛南町平城の「紫電改保存館」へ行った。かつて吉田三傑の清家吉次郎が教鞭を執っていた南宇和小学校があった所である。昔は城辺と言っていたが愛媛県の南端、隣は高知県宿毛市で、吉さんはえらく遠い所まで赴任したものだ。

吉次郎は平城から学校に通ったというが、平城という地域も中々広い。保存館は海抜150mの所にあり、その上に107mの「宇和海展望タワー」が建っている。そこからは宇和海が広がり、吉次郎が明治35年に訪れたという土佐の柏島が遠くに見える。その頃は1日がかりで柏島の水産補習学校にたどり着いたのではないだろうか。

紫電改保存館に引きよせられたのは訳がある。昔、特攻隊要員だった舞踊家の宮川氏は、戦死した先輩たちのゆかりの地を訪れ鎮魂歌を作り踊った。宮川氏は2月に卒寿を祝ったばかりだったが、このまえ90歳の天命を全うされた。松山市の食堂のおかみさんが343航空隊員に「紫のマフラー」を贈った話を宮川氏はエッセイに書いていたが、それが保存館に飾られていた。

昭和20年7月24日大村基地から飛び立った紫電改は、呉方面から引き返す米軍機を豊後水道の上で迎え撃ち大空戦となった。

343航空隊は紫電改たったの21機で空母「ヨークタウン」の艦載機約200機に立ち向かった。この空戦で未帰還が6機、そのうちの1機がこの地の久良湾に沈んだという。終戦3週間前の事だった。

昭和54年7月に遺族や報道陣が見守る中、この紫電改が引き上げられた。日本にただ1機残存する旧海軍の戦闘機である。

ブロガーが勤めていた会社の親会社役員の親族がこの機のパイロットではないかと云われている。

保存館のすぐ上が展望タワー、坂を登ってたどり着くとすぐ出るというので客室に乗り込む。回転しながら107mまで上昇するが360°の大パノラマも足がすくむ。乗車時間6分間のことだった。

f:id:oogatasen:20190506113121j:plain紫電改保存館の上に展望タワーが見える

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「紫のマフラー」グッズを買った

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損傷個所が見えない、何が原因で落ちたのか?

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右端に沖ノ島柏島も遠くに霞んで見える

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この展望車が2分かけて107mまで昇る

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この久良湾に紫電改が沈んだ

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本が出来上がった!!

2年かけてブログに掲載した『吉田三傑2019』~吉田町の歴史と文化~が印刷所から届いた。本は吉田町に特化した内容でローカル色の濃い本です。吉田町出身の方は、古き良き時代を描いているので郷愁をそそるのではないだろうか。

第一部は昭和初期の吉田町の街並み、風景、神社仏閣など56点を描き、版画に残している。作者は吉田病院眼科医長の「小林朝治」で信州須坂の人である。

第二部は吉田町御船手に生まれた吉田藩士の息子「村井保固」で、福沢諭吉の勧めでアメリカに渡った。日本では西南戦争が終わった頃で、森村組ニューヨーク支配人となり、爾来、没するまで、日本とアメリカを45往復するスーパービジネスマンだった。

第三部は歴史のある「吉田祭禮」について古い文献を繙き紹介した。また、お祭りの風景、お祝い料理など昔の暮らしを綴った、吉田魚棚出身者の回想録が興味を引く。

第四部は漢学者「簡野道明」の生涯を掲載した。自力で「字源」を20年かけて著した不屈の人である。人名が吉田図書館の冠になっている。

本はA5サイズで270ページ、代金千円の内五百円を吉田町に寄付することにした。

本の申込は、FAX047-491-6508に氏名住所を記入して送信頂ければ郵送します。

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