ブログ再開 『日本の海のレジェンドたち』

1年ぶりのブログです。

 この期間中に『日本の海のレジェンドたち』という本で、トランパー「山下亀三郎」の評伝を書きました。一般財団法人山縣記念財団の創立80周年記念出版で海事産業に貢献した先人たちの評伝集です。

 山縣記念財団は1940年に辰馬汽船の援助で財団が設立されました。

辰馬汽船のルーツは、1662年創業の辰馬本家酒造で、灘の生一本「白鹿」を醸造しました。辰馬本家はこの酒を「樽廻船」で江戸まで運びました。

 亀三郎は昭和初期に、第13代当主の辰馬吉左衛門に特注の清酒「天下の白鹿」を頼み、門外不出の贈答用としました。今の「天下の春」の原型でしょうか。

 亀三郎の山下汽船と辰馬汽船は大正の大戦バブルで巨万の富を得ました。辰馬汽船は新日本汽船と社名が変わり、1964年の海運再編で「山下新日本汽船」に集約されます。

 本書では、亀三郎は海事産業の発展に寄与したレジェンドとして大正の三大船成金として位置づけられています。ブロガーは『トランパー』の筋書きに沿って書きました。 

 評伝集の執筆者は、大学教授、学芸員、海事研究家など錚々たる方たちで、小生は、評伝という大それたことは申せませんが、郷土の偉人の足跡を自分流で書きました。

この財団の創設者・山縣勝見は、戦後、GHQの統制で外航船が国外に就航できない時に、吉田茂内閣の下で日本の海運を国際社会に復帰させます。

この本は2020年に出る予定がコロナ禍で大幅に遅れました。今月12日、海文堂出版㈱から書店販売され、ネット書店でも扱っております。お代は¥2,500です。

 この本に協力してもらった方々に贈ると嬉しい返信が届きました。地元白井の読書家にも見てもらい喜んでもらいました。

 さて、「西国の伊達騒動」は永の中断でしたが、そろそろ続きをアップしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

 ついでに申し上げると、この1年間に某新聞社の〇〇賞に応募する為、小説を執筆しておりました。山下亀三郎のストーリーですが15万字の長編です。12月結果発表ですが、難関突破を夢見ております。

 いつまでも「吉田三傑」を追いかける老もの書きです。

 

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撮影:木野本かな子氏FBより引用

輝かし染井吉野に亀三郎 (しげる句)

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郷古達也財団理事長のFBより引用



ブログ終了

気ままにブログを書いてきましたが

コロナ対策の為、暫し休みとします。

長きにわたりご芳情ありがとうございました。

 

                                                      The End

 

追記

本ブログ再開まで下記のブログを

見て頂ければ幸甚です 

トランパーいいかも

 

西国の伊達騒動 15

吉田藩紙騒動 (8)武左衛門

  近世において百姓一揆の発生件数は、全国で三二〇〇件あったが、伊予国(えひめ)は一五五件あり第四位の上位である。中でも南予地方は宇和島藩六五、大洲藩一九、吉田藩一五と何故か集中して多い。

 インターネットを検索していると、『南予史探訪』・内ノ子一揆を紹介している(じゅんのつぶやき)というブログを見つけた。ブロガーはすでに亡くなっておられるが、娘さんの意向でブログはそのまま残っている。

 莫大な数の更新記録があるが、カテゴリー(愛媛の歴史)から貴重な記録を引用させて頂きます。

 この方は宇和町のご出身で、寛延三年(一七五〇)に大洲藩で起こった内ノ子一揆を紹介している。

 この内ノ子一揆は、四十三年後に起きた武左衛門一揆に影響を与えたという。

 この一揆は、喜多郡の小田郷薄木村の農民が起こした騒動が発端となった。

 村の農民が、年貢の重さと村役人の横暴に立ち上がり、たちまち喜多・浮穴の農民一万八千人は、内子・山中地区の庄屋・豊農・豊商を打ち壊し内ノ子河原に集結した。

 この時、農民たちは、村々の庄屋・組頭・特権商人宅などと大綱などを用いて次々と引き倒しながら大洲城下を目指した。

 農民たちは、年貢の四割免除、農民による公役の減免、年貢徴収時の計りの不正使用の廃止、悪質な村役人の排除など二十九ヶ条を要求した。

 大洲藩では、支藩新谷藩の調停を受け入れ、一揆が起こって八日目には農民の要求をほとんど認めるという回答を、新谷藩を通じて農民に伝えた。

 内ノ子一揆は、発生から十一日目には一揆の指導者への処罰を不問にさせるという交渉をし、それを大洲藩に受け入れさせた。

 だが、一揆指導者の処分を不問にするという約束は一ヵ月後に破られ、一揆後、小田筋の村々で十四、五人が召し捕られ、拷問の末に入牢や追放、閉居の刑に処せられたという記録が残っている。

 このブロガーは、吉田藩の武左衛門一揆にも触れており、

「武左衛門と共に捕縛された者の中に、大洲藩出身のものが二名居たといいます。それを綿密に研究なさった方がいます。その当時は他の藩に移動することなど出来なかった時代です。それでも、大洲藩の出身者が一揆の指導者の中に入っていたという事実。これが、四十三年前に起こった大洲藩の内ノ子一揆とを結びつける鍵です」

と記述されている。

**

 さて、話を吉田騒動に戻すと、

 一揆の首領・武左衛門は、吉田藩の家老など権力者が、御用商人らと癒着する悪政に憤慨していた。年々百姓衆が困窮するのを見て、自らが身を挺して救済をしなければと決意した。

 しかし、七年前の土居式部事件の失敗も有り、内密に信頼のおける同志を見つけることに専念した。

 武左衛門は三年に亘って吉田藩の山奥、川筋、三間盆地の山間部から、吉田陣屋に近い立間、喜佐方、白浦、はたまた海浜部の飛び地、津々浦々まで八十三ヶ村を回り、意思の固い農民二十四名を集めた。 

 藩内の百姓全てを実力行使に参加さすために、入念な準備をしたのである。

 武左衛門は、集団蜂起のタイミングを計っていた。

 藩の苛斂誅求に対し、度々の租税減免の願いも空しく、いよいよ百姓衆の鬱気も最高潮に達していた。

 武左衛門は、機まさに熟したと、遂に立ち上がり各村の同志に檄を飛ばした。

(我等は法華津屋ら奸悪な商人の為に餓死寸前まで追い込められた。早くやつらをぶっ倒して、自活の道を開かねばならん、皆一同起て!)

 戸祇御前山に狼煙が上がったのは十日朝である。狼煙は事前の打ち合わせで川筋、三間、立間へリレーされた。立間の山から上がった狼煙は、海岸端の漁村に一揆決行が伝わった。

 二月九日の夜、戸祇御前山に集結していた百姓は、日向谷(現日吉)・高野子(現城川町)の奥へ廻り申次の通りに村々の皆を誘い出した。

 十日昼頃、山奥十ヵ村から屯集した百姓衆は、鉄砲を放ち法螺貝を吹き、鬨の声を上げた。その道筋で、

(大声を出せ!出さなければ戻って礼をするぞ!)

と示威運動を開始した。

 一揆集団は、(法華津屋を打ち壊せ!)と、麻苧の中に神社の護符、女の髪の毛を綯いこんだ大縄を携え、村の名を書いたムシロ旗を押立て、一気に広見川を下った。

 各村では、武左衛門の見込んだ同士共が手筈通りに行動した。

 興野々村・彦右衛門、延川村・清蔵、国遠村・幾之助、沢松村・藤六、兼近村・金之進、六右衛門、上川原渕村・與吉が、武左衛門の指示通りに百姓衆を束ねて気勢を上げていた。

 一揆の連中は、途中で各自が持ってきた大綱を、大木や大岩に引っかけ引き倒した。勇気付けに茶碗酒をあおり大声を発した。夜になると松明を振りかざし時々銃声も発した。

 大勢の百姓が山から下りる姿は、まるで大蛇がくねくねと身をよじっている異様な光景であった。

 一方の作之進は、これまでの一連の動きから一揆勃発の恐れがあると感じていた。

 二月九日夜、川上村の庄屋清左衛門は、百姓共の急変を見て手下の者に、代官岩下萬右衛門へ急ぎ報せた。しかし代官は病気で、中見の鈴木作之進へすぐに申し越すようにと言われた。

 その一報を聞いた作之進は、来るべきものが来たと、奉行所へ急いだ。

 作之進は、一揆の連中は出目村に集結すると読んでいた。出目は山奥組、川筋と吉野、奥野川などが合流する要の場所である。

 郡奉行の役人は急な事で狼狽したが、取り急ぎ代官・平井多右衛門、星名善左衛門、江口圓左衛門、二関古吉、鈴木作左衛門は次々と出郷した。岩下萬右衛門は病気につき出郷出来なかった。

 奉行・横田茂右衛門、簡野伊兵衛、中見助敬蔵、御郡渡の四人も急に出立した。

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(2018.3.22日吉にて、蜂起する百姓と紙の原料ミツマタの花)

 

 

西国の伊達騒動 14

吉田藩紙騒動 (7)一揆の始まり

 紙方役所の岡っ引き、提灯屋栄蔵は新法の下で、やりたい放題だった。その手下に遍路や乞食のように変装させ、百姓共の家へ改めと言って押し入り、どさくさに紛れて盗みを働いた。

 作之進は、昨年十二月二十一日に延川村で、夜中松明を振立て鉄砲を放って鹿狩りのように暴れている手下どもを見た。

(これは何事だ、周りを威圧するような大声を上げ、目に余る仕業ではないか)と郡奉行所につぶさに報告した。

 札付きの栄蔵は、百姓の憎みが多く、役所は栄蔵に吉田から出ないように申し渡した。しかし何かの間違いで栄蔵は出郷し、吉田に戻らなかった。 

 目付の江口円左衛門は井川御用廻りの折、山奥組に栄蔵がいなくなった事をそれとなく伝えた。村は別に何もない様子なので二月九日吉田に帰った。

 しかし悪い事は重なるもので、正月二十三日、紙方役所の中見役格、吟右衛門が、紙漉き村へ出向いて、紙は藩が残らずお買い上げすると申し渡した。吟右衛門は御測長柄組の足軽だったが、最近紙役所に取り立てられた。この男が喋ったのは、代官や作之進が百姓共に申渡した内容と違うので、益々百姓共の役人に対する不安がつのることになった。

 さて、吉田藩の山奥組は土佐藩と隣接している。日向谷村からひと山超えると土佐の梼原村である。梼原は土佐のチベットといわれたが、高知市から西に四十キロ程の距離である。千メートル級の高研山が国境の山である。

 梼原から多くの幕末の志士が輩出された。天誅組の首領格だった吉村寅太郎も庄屋の出である。

 彼の坂本龍馬土佐藩郷士で脱藩の折、この梼原を経由して伊予に入った。所謂「脱藩のみち」の名所である。

 作家・司馬遼太郎は「歴史上、梼原は僻地とは言えない。むしろ室町初期までは土佐を代表していた」と語っている。

 この地を領有していたのは梼原を開墾した津野氏で、室町中期の当主は津野孫次郎で、戦国時代は土佐守護代細川氏、土佐幡多郡一条家から攻められ、遂に戦国末期には長宗我部元親に滅ぼされたという。

 宝暦五年(一七五五)梼原の近くで起こった「津野山一揆」は伊予吉田藩紙騒動の先鞭をつけたものではないだろうか。

 この騒動の原因は、藩と御用商人が組んで木材、紙、鰹節などを専売制にして藩が金儲けをする。まるで吉田騒動と同じ構図である。農民の副業である紙や茶の利益を横取りする藩に、村々の百姓が怒り一揆が企てられた。

 土佐藩は商品ごとに問屋を指定した。吉田藩が行った楮の入山と同じで、藩はその問屋から運上金をとり御用商人に寄生する。商人は農民を支配し農民のくらしは凄惨なものになった。

 高知城下の通町に店を持つ御用商人の蔵屋利左衛門は、藩から津野山八ヵ村の商品買付け権と販売権を任され、侍分の資格が与えられていた。吉田藩の法華津屋のようなものである。

 蔵屋は、楮など山の産物を買い叩き百姓共を苦しませた。百姓共は蔵屋の専売権を停止してほしいと藩に訴えた。藩はこれを無視、むしろ百姓を弾圧した。これも吉田騒動と全く同じである。

 ここに梼原村の庄屋、中平善之丞が登場する。命を捨てる覚悟で一揆の中に入り百姓衆を指導した。

 時に高知城下に、

――津野山の一揆が城下まで押し寄せて蔵屋を襲撃する。

という噂が立った。

 藩は、先手を打って足軽隊を出して善之丞を捕縛した。その他二十数人が縛に付いたが善之丞が罪は自分一人にあると言い張り、彼らは釈放された。

 津野山一揆はムシロ旗を押し立てたのではなく、農民たちが幾度も寄り合い、いっそ幕府に直訴するか、他藩へ逃散するか談合を重ねていたのである。

これも吉田藩の土居式部の一揆未遂事件と似ている。

 所が土佐藩は、中平善之丞を密かに殺すようなことはせず、蔵屋利左衛門と公式に対決させた。

 善之丞はいちいち実証をあげ、蔵屋の暴利と私欲を糾弾した。弁解に窮した利左衛門はこれによって死罪となった。

 善之丞も法を破って一揆を集合させた罪で斬首の刑に処せられた。

 善之丞が刑死した日は風が強かった。やがて暴風雨となり地震が起こり津波まで伴なった。地元の人々はこれを善之丞のたたりとして「善之丞時化」と呼んだ。

(参考文献:司馬遼太郎. 街道をゆく 27 因幡伯耆のみち、檮原街道 ) 

 この事件の四十年後に吉田騒動が起きる。

 事件の発端は楮生産地、紙漉き村がある吉田藩の山奥組。

隣国土佐藩で起きた「津野山一揆」の梼原村までわずか十数キロの非常に近い所で発生している。しかも、藩、御用商人、百姓と登場人物もそっくりである。

 伊予吉田藩を揺るがす百姓一揆の首謀者は、土佐藩で起きた百姓一揆を真似たものか、はたまた土佐から吉田藩山奥に移り住んだ者が企てたものなのか220年経った今でも断定されていない。

 吉田藩上大野村に武左衛門という百姓が住んでいた。

 この男が、リーダーとなって一揆を主導した。これがいろいろな史実から定説とされている。しかし、この男の人と成り、事件の背景が明らかにされていない。

 上大野村は山奥組に属して現在の鬼北町日吉である。土佐に最も近いのは日向谷村で父野川、下鍵山村、上大野村などが土佐と行き来していた。

 日向谷からは高研山を越え梼原に、紙の原料の楮、三椏を運んでいた。

 この地に、土佐和紙の祖といわれた紙漉きの名人新之丞という職人が居た。

 彼は山伏の格好をして四国行脚の旅に出たが、土佐で病に倒れた。新之丞は長宗我部一族に助けられたが、そのお礼に抄紙法の秘法を伝え、更に一族らと共同で七色紙の製造に成功した。

 だが、理不尽な事件が起きる。新之丞が日向谷へ帰る途中、仁淀川を見下ろす仏ヶ峠で一族に斬殺された。土佐紙の起源となる七色紙の秘法が外に漏れるのを防ぐためだった。

 戦国時代とはいえ、藩の利益を守るため、隣国伊予の新之丞が犠牲になるとは惨い。紙の村、日向谷にはこの様な悲話が残っている。

 明治二十二年、父野川・上大野・下鍵山・上鍵山・日向谷の五ヶ村が合併して日吉村が誕生した。初代村長の井谷生命は上大野の武左衛門について古文書や村の故老からの聞き取り調査をもとに大正六年、『嗚呼武左衛門翁及宇和史ノ概要』を発行した。

 武左衛門は日吉の義農として崇敬顕彰されている。

 寛政五年二月九日夕刻、戸祇御前山に集結した百姓六、七十名は、父野川方面へ乗り出した。いよいよ百姓一揆の始まりである。

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      (日吉夢産地にて 2018.3.22撮影) 

 

 

 

 

西国の伊達騒動 13

 


 吉田藩紙騒動 (6)百姓願い事

 十一月の御仕法が発令されて以降、十二月四日に紙方役所は、紙の運搬方法など細則を出した。さらに楮の値段を決め、役人が出向いたときの賄事を定めた。

 だが、百姓衆を激怒させたのは、役所が御小人組の栄蔵など数名を用い、紙漉き村の抜け売などを厳しく捜索させ、その手下に忍びの者を使い、盗人のよう百姓の家に立ち入れさせたことだった。

 栄蔵という男は、元土佐者との噂であるが、吉田裡町の職人長屋で提灯張をやっていた。最近は上方から、安い紙で作られた安価の提灯に押され商売を止めていた。

 今度の御仕法で、何故か紙役人から声が掛かり、長屋の浪人や無頼の者を引連れ、役所に召し抱えられていた。

 ***

 さて、これまで紙騒動のネタを延々と書いてきたが、いよいよ、伊予吉田藩三万石を揺るがす大事件が勃発する。

 寛政四年師走半ばに、鈴木作之進が山奥組へ出向いたのは、紙漉き百姓共の不穏な動きを確かめるためだった。

 山から帰った作之進と入れ違いに、代官・岩下萬右衛門が部下を引連れ吉田を発った。二十一日より三間の音地村で様子を探り、更に広見川の川筋村から山奥組の村へ入った。

 二十六日、在目付江口円左衛門と渡り方の二人も音地村へ出向いた。

 もう一人の代官・平井多右衛門は、代渡り方と足軽二人を従い、内深田村を捜索して川筋へ入った。在目付助役の二関古吉は足軽二人と出立した。

 吉田陣屋町の者は、郡奉行所から二人の代官や多くの藩士が次々に出立するのを見て、何事が起ったのかと、役人たちの姿を心配げに見送った。

 二十九日夜半過ぎ、山奥の川上村で警戒する岩下萬右衛門から書状が到来した。それによると、

(正月元日に、百姓共一統は出立すると、延川とどろへ申し次ぐ者がある、直に作之進は山奥へ参るよう)との仰せである。

作之進は、

(まさか、元旦に事を起こすとはどうしたことか)

と驚いたが、急いで大晦日早朝に出発した。

 平井多右衛門、二関古吉は報告の為一旦、二十六日に吉田へ帰ったが、その外の足軽たちは村々に残った。

 川上村へ到着した作之進に、岩下萬右衛門は、

「昨夜川上村の者を入念に取り調べたが、利根酒屋より上には申し次ぎを聞いたものはいない。川下も同様に知らないという、申し次ぎは噂かもしれない」

と、語ったが、作之進は多くの役人が長逗留しているので、百姓共はじっと息を潜めていると思った。

 結局、山奥は何の異変もなく静かな大晦日となり元旦を迎えた。しかし作之進は警戒のため暫く止宿せざるを得なかった。

 年が明け寛政五年の元日、作之進は、庄屋らとの挨拶もそこそこに上鍵山村の光徳院へ行った。修験者が何か情報をもっていると思いこの村に止宿した。

 作之進は、この山で修行する山伏から耳寄りな話を聞いた。

 山奥組は久保村、小松村、延川村、川上村、上大野村、下鍵山村、上鍵山村、父野川村、日向谷村、高野子村の十カ村がある。

 山伏は、修行でそれらの山村を通るが、百姓共がなにやら藁を打って大綱を作っている。それも端には輪っか、一方は節として拵えている物を見たという。

(どうも村人の様子がおかしい、鎌や斧を持って何か事を始めようとしている。これに従わないものは家を焼き払う、打ち壊すと申し合わせているようだ)

と山伏は作之進にそっと耳打ちした。

 作之進は、以前山に来たときは平穏だったが、この話を聞いてやはり一揆の噂は本当だったのかと、山奥の急変に驚いた。

 五日、三間川之内村の庄屋勇左衛門が、慌てた様子で内深田村へ来た。

 集まっている各村の庄屋に語ったのは、

(百姓衆から願い事があると聞いたので、早く願書を出せと申したら何処からもその申し出がない)

これは何かあると思って相談に来たのだという。

 内深田村の庄屋竹葉蔵之進は、この村に来ている代官の平井多右衛門へ、この情報を早急に知らせた。

 翌六日、平井多右衛門よりの書状が作之進へ届いた。それによると、

(六日明け六つ時、百姓共は山越にて山奥より奥野川へ出立すると小頭権蔵へ知らせた者があり、作之進は川筋通りを見張るように)と書かれている。

 作之進は、一揆の動きが方々で聞かれるので、何とかして首謀者を見つけたかった。日頃声をかけている百姓も知らぬ存ぜぬで、糠に釘、取りつく島がない。

 作之進が、川筋通りを探索している時、「ちょんがり」という門付け芸人が、この度の様な悪説を門々に語り歩いている情報を得た。

 このちょんがりは、虚説を流している土佐者かどうか分らぬが、作之進はこの男を早々に村から出るよう部下へ指図した。

 七日朝六つ時、中見役敬蔵の書状が、代官岩下、中見鈴木の居る小松村へ届いた。

 それは、郡奉行の小島源太夫、目付の簡野伊兵衛が三間音地村にきて、山奥組の百姓共の願い事を聞くという内容だった。

 鈴木作之進は、奉行が直々に百姓共の願いを聞くとは、事の重大性に改めて気を引き締めた。

 奉行らは、庄屋衆から百姓共の願い事を聞き、後日、沙汰すると申渡し吉田に帰って行った。

 早速、藩で評議が始まったが、家老の面々は山奥組、川筋の百姓の不穏の動きを奉行から聞いて知っている。騒動が起きることは避けたいと考えていた。

 特に、末席家老の安藤義太夫は、百姓共の度重なる陳情を奉行らから聞いており、疲弊した百姓共の民力休養が必要と力説した。

 しかし重役の中には、今まで百姓共が法華津屋と売買したのは商売上の取引で罪とはならぬ、紙役人の厳しい処置は各々の職責を全うしたまで、年貢についても今になって堪えられぬ道理はない、という強硬論もあり評議は難航した。

 だが、本当に百姓一揆が起ればお家の大事となる、宇和島藩に吸収される口実をつけることになる。ここは、百姓共の願いに譲歩するしかないとの結論が出た。

 正月二十三日、代官岩下萬右衛門、目付補佐二関古吉、中見鈴木作之進、下代その外数名が申渡しのため吉田を発った。

代官は百姓共へ概ね次のような回答を申し伝えた。

・楮紙の他所売り、値段も自由にやってよい。

・紙買町人(法華津屋)は指定商人「入山」から引離す。

・楮元金は藩から拝借できる。

・紙買町人は多人数に申し付ける。

 更に願書の数か条、つまり大豆の値段、大豆乾欠、米の計量方などについては、改めて回答する旨申し伝えた。

 二十六日、二関古吉と作之進は川筋へ向かい百姓共に、数か条の願いは相立たず、万事従前通りと申し伝えた。

 藩はこの時期になって、紙に関しては御仕法を緩めたが、肝心の年貢については改めなかった。これでは百姓共の怒りは収まらず、いよいよ緊迫感を深めていった。

 

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(武左衛門一揆記念館・2018.3.22撮影)

 

西国の伊達騒動 12

吉田藩紙騒動(5)紙方役所

 

 紙漉き百姓に突然、悪しき報せがあった。

 寛政四年十一月十五日、藩は紙方役所を置き「紙方御仕方替」つまり密売などの取締りを厳しくする新法を作り、藩は財政難を乗り切ろうとした。

 これを知った作之進は驚き、御郡奉行衆へ

「今回の新法は恐れながら腑に落ちません。納得が参りません」

と言うと、奉行の横田茂右衛門は、

「これは、わしも知らぬ事、いきなりの事で戸惑っている。元締め衆に聞いてみたが、誰も知らぬ存ぜぬという」

 これは藩と御用商人が、秘密裡に進めたのであろうと、作之進は思った。

 この新法の経緯が詳らかになった。

 吉田藩領内の紙は、商人と百姓の相対商買で決まる。百姓は成るだけ売値を上げて利益を得たいが、商人は少しでも安く仕入れたい。この力関係は紙漉きの生産量で変わる。

 商人は、最近紙漉きの量が少ないと不振に思い、隠密をもって調べた。隠密は、百姓が商人に売った紙の外に、漉き貯めた紙がかなりあることを突き止めた。

 百姓共は、不況の時は、商人の買い控えで紙が余る。漉き貯めたものが増えるのは仕方がない。窮したあまり他所へ抜け売りをするのは当然の成り行きだろう。

 作之進は、法華津屋の商売を頭に描いた。

――法華津屋は千石船で大阪向けに種々の荷物を輸送している。多くの品目を扱う幅広い商いで、商品相場に詳しく金融にも長けている。

 藩の重要産業である紙ビジネスを拡大しようと考えるのは、商人として当たり前のことである。

 法華津屋は大阪で、藩の御用為替を扱っている。そのお金を借用して手広く商売をしている。

 紙においては、藩の御用紙以外に自社で紙を買付け、大阪での販売を年々拡大している。藩のお金をうまく運用して私的なビジネスに流用している。

 作之進は、法華津屋が余分の紙を買い集めるのは、ひょっとすると山奥組の抜け売している紙が、回り回って自分の所へ集まるように仕組んでいるのではないか。

 抜け売を高く買ってまで商売ができるという事は、余程大阪で紙が高く売れるのであろう。藩の御用紙を紙漉き百姓から安く買って、一方、高値でも抜け荷を集めて販売量を増やす。

 その元手が藩のお金であれば、法華津屋は濡れ手に粟である。

 法華津屋両家は、吉田藩と言わば運命共同体である。「紙方御仕方替」が発令され、御用商人たちが潤い、百姓衆は益々窮地に追い込まれた。

 新法「御定の事」が発令された。

 藩は、群奉行、町奉行を差置いて紙方役所を設置した。

 紙方作配頭取に、今城利右衛門、井上治兵衛、同作配方に影山才右衛門、紙方改めに国安平兵衛、檜垣甚内という人事で、いずれも目付役である。

 新法の細則は、平たく言うとこうである。

・紙漉きの他所売り、抜け売りを厳しく取り締まる。即ち、忍びの者を入れ、その働きにより褒美を遣わす。

・百姓一人当たりの仙貨紙を一丸半と決める。

・請負紙の他は、定価に三十分の一を加へ買取る。

・他所紙の取次は差しとめる。

・紙買株は勝手次第だが、新増株は指し止める。

・毎年、楮の値段を紙方役所が決める。

・船積や紙荷船が滞船のとき、忍びを入れ取り締まる。

 しかし作之進は、この新法には疑念を持った。

 つまり、

・紙漉き高を統制することはない、百姓の生産は自由にすべき。

・請負以外の紙を買い取る場合、三十分の一増しでは安すぎる、これでは抜け売を止めることは出来ない。

・他所売りについては、規制せず自由にすべきである。

・新増株の指し止めは、益々法華津屋に独占されて百姓衆の反感を買う。

・楮の値段を毎年役所が決めることは、生産者を惑わす。

・楮、紙の取締りに忍びの者を入れても抜け売はなくならない。

 作之進は、このような疑問もあり、御郡奉行へ内々でこの旨の申し入れをした。

(百姓衆は、今は楮を蒸す仕事の最中で忙しい、不意の御仕法の仰せは只々狼狽えている。来年の春まで御定めは待って欲しい)

 郡奉行は、この度の御仕法について末席家老の安藤義太夫に陳情した。

 奉行の横田茂右衛門は、

「安藤様に申し上げます。この度の御仕法に付きましては、恐れながら百姓共が騒いでおります。郡奉行にても仔細分からず当惑しております。山奥組を取り締まっている部下からも、厳しい御定めで百姓共の反発は必至と申しております。何卒、ご一考のほど御願い申し上げます」

 家老の安藤義太夫は、

「百姓共の言い分も有ろうが、決まった事である。暫し、様子を見ては如何であろうか」

と諭すように答えた。

 奉行の横田は、奉行所に帰り皆に伝えた。

(安藤殿は最近家老に成られ、上役には中々進言出来ないのであろう。暖簾に腕押しのようなご返答であった)

 作之進は、今回の御定めが施行されると、今まで積もり積もった百姓衆の怒りが一気に爆発するのではと、危惧していた。

「ご奉行様に申し上げます。山奥の百姓は入山の統制後、紙の値段が下がり、借金の返済も滞っている居ります。これ以上厳しく規制すると、窮した百姓共は一揆を起すかも知れませぬ。もう一度、御家老にご建言致されたくお願い申し上げます」

と、作之進は、頭を畳につけて進言した。

 御郡奉行衆も山奥組の狼狽ぶりは承知していた。藩の事情もあり、奉行所としては政治に口出し無用と考えていたが、流石に今回の新法は、奉行所も知らぬこととはいえ見過ごすことは出来ない。

 数日後、奉行の横田は再び家老安藤を訪ね、

「御家老様、藩命に口を挿むは不届きと、重々分かって居りますが、百姓共は何やら只ならぬ様子であります。当方も十分に取締りを強化しますが、大事に至らぬ様、今一度ご対応を願い申し上げます」

 再三の申し入れに安藤義太夫は、

「藩が、財政難で苦しんで居るのは貴殿らも承知であろう。この度の御仕法はお家を護るためである。貴殿たちが懸念するのであれば、倹約奉行に聞いてみては如何かのう」

と、苦し紛れな返答だった。

 安藤の指図で横田は、倹約奉行を訪ねた。紙方作配頭取の井上治兵衛も同席したが、会談の結果は帰館した横田の呟きで分った。

(倹約奉行は、その段以ての外とけんもほろろで、代官衆に聞けばよかろう、とは無礼な申しようだ)

 結局のところ、作之進の建言は日の目を無ることはなかった。

 

 

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  仏にもならで涼しき庵哉  狸兄

(法華津屋三引3代目当主甚十郎)

この句は、宝暦3年(1753)芭蕉ゆかりの地を訪ねたおり、象潟で詠んだ作。 

  又日々に新に清き木槿かな  虹器 

(法華津屋三引6代目当主古右衛門)

吉田騒動を機に43歳で隠居、文化10年(1813)「年賀集」を刊行、日本各地の文人墨客と幅広い交流がある。

      =国安の郷 2015.5.6撮影=

 

 

 

 

西国の伊達騒動 11

吉田藩紙騒動(4)商人と百姓

 作之進は、法華津屋が紙の商売を止めたいという、手前勝手な言い分に腹が立っていた。

 御用商人は、藩や、大阪の豪商らから借りている楮元銀の資金を、返済できなくなった。それは、近年、紙の出来が悪く、紙漉き百姓衆からの返済が滞っているからと申している。

 吉田藩は、法華津屋が所有する千石船で紙を大坂の紙問屋へ回漕している。紙事業のシステムには、御用商人が大きく係わっている。これが破綻をきたすと、お家の一大事である。そう安々と大手商人が商売を止めてもらっては困る。

(両高月家は、藩に無理を言って返済金を棚上げさす魂胆ではないか?)

と、作之進は考えていた。

 山奥の出目村の番所で、作之進は商人たちの我が儘な言い分を話したが、庄屋の新次郎は、

「百姓衆も、金を貸してくれる商人がいないとやっていけない、法華津屋がやめるのだったら、藩に資金の拝借をお願いするしかないのでは……」

と、百姓衆の代弁をした。

 作之進は、紙事業の金回りが悪くなった原因を考えた。

――紙の製造元の山奥組は、楮、三椏の栽培に問題はない。紙漉きも資金を充て生産を増やしている。紙の販売は御用商人が大阪に出荷し収入がある。藩は、年貢を取り立て、紙の資金として御用商人にその一部を預けている。紙の需要が続く限り、金のサイクルは回り続ける。

 では一体に何処に問題があるのか、法華津屋が嘘を言って居るのか?百姓共に偽りがあるのか?他所への密売か?金貸しの利率が高いのか?年貢が高すぎるのか?――

 何れにしても紙が無くなると藩が困る。それを判った上で、商人と百姓の虚々実々の強かさを作之進は感じていた。

 当時の吉田藩主は、六代目伊達村芳(むらよし)、寛政二年、十三歳で家督を継ぎ、江戸御屋敷に詰めていた。よって藩政は家老の飯渕庄左衛門、尾田隼人、松田六右衛門らに任されていた。

 その頃、宇和島藩主伊達村候(むらとき)の推挙で安藤儀太夫継明が家老の列に加わっていた。

 藩の重役は、法華津屋の陳情を聞き、御用商人の預かり金(楮元銀)の返済猶予と、百姓の借金についても見直すことで、部下の役人らに指示をした。

 財政の見直しを御内方、御郡方、町方の三役人が行うことになった。結局、商人の預かり金は、紙漉き村から取立てた金額に応じて、年賦で返済する事に決まった。

 紙漉き百姓の取立てについては、御勘定方の檜垣甚内と中見役鈴木作之進の両人が仰せ付けられた。

 取立てのスキームが決まって、代官の岩下萬右衛門と平井多右衛門は、鈴木作之進を伴い各村々の庄屋所へ向かった。

 吉田陣屋から十本松峠を越え、三間盆地へ入った。やがて宮野下村に着いた所で、代官は、集まった庄屋共に、

(この度、藩の方針が決まったので申し渡す。百姓共の借金は藩が管理する事になった。今後は、鈴木作之進らが取立て業務一切を行うので、残債や返済方法についてはよく相談をすること)

と、申し聞かせた。

庄屋共は神妙に聞いて、

(相分かりました、只今申し述べられたこと、百姓衆によく伝えます)

と、代官らに頭を下げた。

 この話を庄屋から聞いた百姓共は、

(法華津屋の金利はべら棒に高く、紙の値段は安い、これでは何年たっても返せない、無い袖は振れない)と息巻いた。

 急に忙しくなった作之進は、先ず、百姓の借金がどれだけあるのかを調べた。法華津屋への返済方法や、今からの取立てを如何にするか、頭を悩ました。

 大方の百姓共に話しを聞いた作之進は、

(これは、とても五年や十年では返せない額で、多分二十年以上はかかるだろう)と算盤を弾いた。

 一方の預かり金は、如何になっているのか、作之進は、密かに法華津屋両家の帳面を調べて驚いた。両家の預かり金は、二百八十四貫(現・約三~四億円)に達していた。

 藩の御預け金は、紙を買い付ける資金と、百姓に貸す設備資金として御用商人に下される。その内容は、作之進の勤める御郡方は何も知らない。まして村方、町方は知る由もない。

作之進は、

(多額の預かり金はどうも無利子らしい。百姓の返済が長引くと預り金は減らない。大阪方の為替の歩合も安く怪しい。

これは御用商人と役人が談合しているのでは……)

と、疑惑を抱いた。

 やはり、法華津屋が紙の商売を止めたいというのは、膨れ上がった御預かり金の返済を逃れるために、一芝居売ったのではと作之進は思った。

 寛政三年の歳の暮れ、作之進は横堀御番所を通り、大桜橋を渡り横堀通りに出た。

(ちょっと御用商人の店をのぞいて見るか)

と、真っすぐ町人町を下った。

 本町通りは師走でどこも忙しく、店の出入りが盛んである。

 御用商人の店が軒を並べ、御掛屋又兵衛、紙問屋の大阪屋、法華津屋「叶」の大店がある。

 作之進は、店に入らず魚棚町へ回った。直ぐにもう一つの法華津屋「三引」の店が見えた。漆喰塗りの大壁や生子壁が、往来するものを圧倒する。屋敷部分も壮大である。浜通りの土蔵には、大阪向けの荷物が、所狭しと収納しているという。

 国安川の雁木には、小舟が繋がれており、吉田湾に浮かぶ大阪向けの帆船に、法華津屋の荷物を積替える。

 魚棚町は魚屋の街で、数十軒の店が港の魚市場まで連なっている。鮮魚店の中には、遠く三間郷まで峠を越えて行商にゆく者もいる。今は、正月用の仕出し、蒲鉾などの練り物を造る仕事で、どの店も活気に満ちている。

 作之進は、浜通りの松並木をぶらぶら歩き、横堀通りに戻って来た。辺りは大夫暗くなってきたので、行きつけの居酒屋「宮長」で一杯やることにした。

 作之進は、ホウタレ鰯を肴に熱燗を呑みながら、下町の繁盛ぶりにややほっとしていた。

(両法華津屋とも繁昌しているではないか、他の御用商人も忙しくしている。紙の商売を止める雰囲気ではないぞ)

と、お酒のピッチが速くなった。

 店の中を見ていると、日焼けした連中二三人が隅の方で、何かひそひそ話で酒を呑んでいる。

 作之進は、見かけない連中だがと、耳をそばだてた。

 その中の一人が酒がすこし回ったのか、

「三引屋は大した羽振りじゃないか、明日は大阪向けに船が出るそうじゃが、わしらの紙をいい値段で売るんかいのう」

と言うと、もう一人の者は、

「今日卸した紙は、三引の言い値で買い取られ、わしらの手元には雀の涙しか残らん。だが借金は高利で、早く返せという、わしらは何の為に働いとるんじゃ」

と、周りを気にしながら声を絞っていた。

 やがて作之進が店を出ると、丁度桜橋を渡った籠が、横堀通りを曲がった。その籠は、料亭「菊屋」の前で停まった。

それを松の木の陰で見ていた作之進は、呟いた。

(あれはご家老の籠ではないか……)

 

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 (吉田町魚棚一丁目 松月旅館・2016.4.28撮影)

 案内板には「当屋敷は吉田藩御用商人・法華津屋三引高月甚十郎の本邸です。書院造り大広間及び奥座敷伏見城の遺構です。1765年に高月邸となり現在に至って居ります。旅館営業中、詩人野口雨情が泊まって直筆の掛軸があります。その他吉井勇丹羽文雄も宿泊され宿帳に記載されています。前庭、中庭、奥庭、になっており古文書もあります」と記している。