トランパー・亀三郎登場

久しぶりにトランパー・山下亀三郎の名前が地方紙に載った。新一万円札の渋澤栄一との機縁である。母校の吉田高校に渋沢が書いた石碑がある。「優美貞淑」と渋沢の自筆を彫っている。

大正8年、渋沢が亀三郎のために贈ったものと思われる。

校長はこの経緯を御存じなくて、生徒にその機縁を説明できない。

亀三郎と渋沢の縁は明治36年に遡る。それ以来、渋沢が92歳で亡くなるまで交流は続いたと、自伝口述書「沈みつ浮きつ」に書いている。

その経緯は本ブログの2016年に掲載しているので覗いてください。

(と云うと、『トランパー』が売れなくなる😢)

5年前、ブロガーは母校を訪ねた。「吉田三傑資料室」を見学する為だった。

その折、校庭に有った「優美貞淑」の石碑をカメラに収めていた。

すっかり忘れていたが、同級生が送ってくれた新聞記事を見て確認したのがこの写真である。昭和42年卒業以来の学校訪問だったので、この石碑は知らなかった。

元号の漢字二文字ではないが、明治の頃、高等学校・建学精神に優美、貞淑の文字が出て来る。渋澤は亀三郎が大正6年、女学校を創設したので、その精神にのっとり四文字熟語を作って贈ったのであろう。(多分)

しかし一介のベンチャー起業者が、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢と縁があったとは、小説にでもなるようなストーリーである。

1万円札に実業家を使うのは初めてだそうで、地下に眠る亀三郎は令和の時代になっても取り上げられては迷惑千万だろう。

ブロガーは愛媛県吉田町が誇る偉人を取上げてきたが、今の若者に「温故知新」の精神はピンとこないのではないだろうか。と、椿七十郎は思う。

 一句  椿咲き回顧の日々を如何にせん

 

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簡野道明は伊予吉田の偉人 10(最終回)

小石川傳通院に参る

 

 道明亡き後、信衛夫人は昭和16年財団法人・簡野育英会を立ちあげ、「子どもの教育にもっとも大切なのは母親であり、その母親となる女性の教育こそ教育の根本である」という道明の遺志に基づき蒲田高等女学校を設立した。しかし戦争が激しくなる中で、昭和20年4月15日の大空襲で校舎が全焼した。老齢の信衛夫人は疎開を勧められるが「吾が身をかまっていたのでは、学校の復興はおぼつかない」と云って聞き入れなかった。だが5月29日、焼夷弾の直撃を受け殉職した。享年82歳だった。

 その後、道明の子よしが二代目理事長となり昭和22年学校を再建、昭和34年、父・道明の幼児教育の重要性に想起し、付属幼稚園を設立した。

 今では、孫の菅野高道が「学校法人・簡野育英会」の理事長として、祖父母の遺志を継いでいる。

 平成22年夏(2010)高道理事長は、教育者・道明の原点は、若き教員として過ごした愛媛の地にあると、その足跡を訪ねた。

 幼年期を過ごした吉田町では、8月19日「清・眞・勤」石碑の前で供養祭があった。史談会、教育委員会など30数名が参列した。その後、国安の郷で講演会があり、理事長は「祖父簡野道明について」を語り、名大教授の加藤先生が「簡野道明の若き日の足跡を訪ねて」のテーマで講演、約120名の町民が話を聞いたという。

 ブロガーの吉田中学同級生・秋田道子は、昭和60年図書館の開館に当たって学芸員として尽力した。この年は、国安の郷・米蔵で「簡野道明展」「歴史講座」を企画した。

 理事長は昨年、供養祭に出席する予定だったが、吉田を襲った豪雨で断念し、蒲田女子高校や学園各校・園の在校生・教職員・保護者・PTA・同窓会の有志から義援金を募り被災地へ送った。

***

 ブロガーは、平成最後の月となる4月2日、桜が満開の小石川「傳通院」に参った。簡野道明翁が眠るお墓は、徳川家康の母「於大の方」墓の隣にあった。傳通院は、昔、学僧の勉学の場だったそうで、隣に淑徳女学校が建っている。道明翁の御墓は親族が来られたのか花が供えられていた。ラフな格好で申し訳ないがお参りした。

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 小石川から道明翁が住んでいた白山に向かった。途中播磨坂の桜並木を歩き、東京大学小石川植物園を見学した。道明翁かつての住所は東京市小石川区白山御殿町107番地で、現在は白山4丁目辺りと思われる。植物園脇に「御殿坂」という案内板があった。

『御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり、この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり、むかしは大坂といひしや』(改撰江戸志)

 若山牧水の和歌が添えられていた。

    植物園の松の花さへ咲くものを  

      離れてひとり棲むよみやこに

 

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     (白山・御殿坂)

  

 

 4月1日は、新元号発表の日。「令和」という万葉集から引用した漢字だった。元号の選定は漢籍古典が慣例となっていたが、初めて日本の古典が採用された。出典万葉集・梅花の歌32首の序、「初春月、気淑風、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」。「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、風も和らいでいるという意味。

 今では、漢学者・道明翁に聞く由もないが、漢和辞典『字源』を引くと、令月は陰暦二月、よい月とある。

            簡野道明物語 終

 

 本ブログは、令和元年5月1日にブログ本『吉田三傑2019』として自費出版する。

 

 

歴史的な日 新元号は『令和』=れいわ=

平成31年4月1日午前11時45分、新元号は「令和」と政府から発表された。

中国漢籍古典の漢字から選んでいたのが慣例も、出典は万葉集の序文からだった。

漢学者の簡野道明は天上で何を想うのであろうか。

簡野著「字源」に、令月は、〇よき月。儀禮、冠禮「――吉日」〇陰暦の二月の異名。とある。

ブロガーは1月の書初めで「永和」と書いた。あるアンケートの新元号応募では15番目だった。

今日は朝からどこのテレビ局も特別番組で慌ただしい。

平成時代を振り返る番組が多いが、私的に平成を思うと、公私とも忙しい人生の激動期だった。

平成はバブル景気に浮かれていたが、バブルがはじけ吾々の勤めていた永代通りは倒産通りと揶揄された。アナログからデジタル、ウイットからドライに変化する時代だったと思う。

元号「令和」は、5月1日に改元される。

自宅前の桜はまもなく満開を迎える。

 

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簡野道明は伊予吉田の偉人 9

死ぬまで執筆に専念

 

フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』に道明の人物が記されている。

=戦前の中等教育の漢文教育の権威であり、彼の編纂した教材は多くの中学校などで使用された。高見順の作品「わが胸の底のここには」、加藤周一の回想記『羊の歌』には、簡野の教材が使用された記述がみえる(いずれも府立一中である)。=

 ブロガーは早速、「羊の歌」をネット注文した。

加藤周一(1919東京生まれ)が1968(昭43)年、岩波書店から出版したご自分の半生記で、朝日ジャーナルに連載したもの。道明の記述は(空白五年)の項にあり、加藤が東京府立第一中学校(現日比谷高校)授業の話である。

 

……また白髮の漢文の教師はもっと正直だった。「これから論語を読むが」といいながら、「これは諸君などにわかる本ではごわせん」と宣言した。そして一行読む毎に、私たちにはほとんど全く通じない感想をいつまでも独言のように喋っていた。「この字を簡野はこういって居るが、簡野などにわかることではごわせん」。

——―しかし簡野道明にわからぬことが私たちにわかるはずはなかった。碁の研究が殊にさかんに行われていたのも、その漢文の授業の最中であった。子供には「どうせわからぬ」と確信していた老人は、私語さえしなければ、生徒が何をしていようと一切構わなかった。……

 というくだりであるが、戦前のほとんどの旧制中学校が簡野道明の本を漢文の教科書として使っていたことが判る。

 

 道明は、85種類の漢文教科書を編集し、21種類の注釈書を出し、近代漢文教育のパイオニアと称されている。旧蔵書の総ては郷里・宇和島市吉田町「簡野道明記念吉田図書館」にある。

 

 道明は大正12年「字源」を出した後も、執筆に励んだ。

60歳、大正13年1924年)「老子解義」を出す。定価4円20銭 送本料18銭。発行所明治書院の広告に「老子解義」の説明がある。「老子」は文辭深奥、古来最も難解の書と称せらる。簡野先生多年研鑽の餘、丁寧深切、平易明快な解説を施され、何人にも容易に老子哲学の真髄を会得せしむべき本書を大成された。

大正14年(1925年)「孟子解義」を出す。

昭和元年(1926年)「補注学庸章句」を出す。

昭和2年(1927年)「歴代文鈔」「歴代詩鈔」等を出す。

昭和3年(1928年)「大学解義」「詩子文枠」「左伝文枠」を出す。

昭和4年(1929年)「唐詩選詳説全二冊」「校註唐詩選」「史記文粋」を出す。

昭和5年(1930年)「中庸解義」を出す。定価2円30銭

昭和6年(1931年)「補註古文真宝集」「通鑑文粋」「言志四録鈔」を出す。

昭和7年(1932年)「補註文章規範」を出す。

昭和8年(1933年)「白詩新釈」「補註古文真宝前集」を出す。「十八史略新解」を校閲する。

70歳、昭和9年(1934年)「孟子新解」「和漢朗詠集新解」「日本外史新解」などを校閲する。

昭和10年(1935年)「補註小学」を出す。「論語新解」を校閲する。

昭和11年(1936年)「古文真宝枠」「唐宗八家文鈔」を出す。

「真註言志四録」「和漢朗吟詩集」を校閲する。

73歳、昭和12年(1937年)「新修漢文」「師範漢文」「新修女子漢文」「新修女子漢文抄」等の新制版を出す。病中校正に従う。

 

 昭和13年(1938年)2月11日、羽田「間雲荘」で没する。享年74歳。小石川伝通院に葬る 法名源徳院間雲虚舟居士と言う。

 没後、昭和14年2月遺稿「虚舟師存」が出る。  

昭和15年2月「虚舟追想録」が出る。

 

 堀田馨・吉田町立図書館長の「簡野道明先生小伝」=簡野先生と図書館=によれば、

 昭和14年、信衛夫人は、故先生の追善の為に、金一万円を図書館建設資金として、更に編さんされた教科書及び著書の全部を吉田町に寄贈された。

 昭和16年、簡野夫人の寄附行為により、村井愛郷会立・簡野道明先生記念吉田図書館が設立される。

昭和25年(1950年)図書館法により簡野道明先生記念吉田町立図書館となる。

昭和39年 (1964年)吉田町役場に移転される。

昭和48年 (1973年)吉田中央公民館に移転される。

昭和61年 (1986年)図書館新築に伴い吉田町立図書館と改称し、御殿内に移転される。

昭和62年(1987年)12月11日簡野道明先生50回忌を執り行う。

(於・大信寺、顕彰会主催・史談会後援)

平成元年(1989年)図書館前庭に「清・愼・勤」の顕彰碑が建つ。

 と、記されている。

 

「簡野育英会」HPに座右の銘「清・慎・勤」が紹介されている。

 学祖 簡野道明先生の座右の銘です。これについて道明先生は、書の中で「右の三文字は、中国の思想家 呂本中が役人の守るべき道とされたものである。されば、この三つの徳の力は、広大なものがあるから、すべての人が、この言葉を旨としておのれへの命をよく奉じ、つねにこの精神にしっかり拠るべきである。そうすれば官界は至極おだやかなものになろう」と書かれています。

 呂本中は役人の心構えを説いたものですが、道明先生は広く世のために尽くす者の心構えとして、この三文字をご自身の座右の銘として心掛けていたようです。

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 (道明自筆の書/蒲田女子高校で撮影)

簡野道明は伊予吉田の偉人  8

小伝に書かれたエピソード

 

(著述の日々)

 先生がある種の本の註釈を為さうと、思ひ立たれると、数年或は十数年に亘つて、材料を蒐集して、準備される。そして一旦筆を下されると、実に神速に運ばれる。それは長い間、あの明敏な頭の中に、順序立てられてゐたものを、するすると引出されるからであつたらう。

 著書に古人の説を引用される場合は、自ら筆写されず、その本から切取つて、自分の原稿に貼付される。原本が如何に貴重な本でも平気である。「勿体ないではありませんか」と言ふと、「出来上ればこの本が、更によいものとなるから、勿体無い事はない」と言はれる。これなどは、先生が御自分の衿作に対する自信の程を窺ひ知るに足る話である。

 同郷人でもあった坂本楽天もその学問と人物とについて次のような逸話を伝えている。

 

 又之は青年時代の事ですが、或日の事、私は赤松三代吉氏を伴うて、簡野氏の宅を訪問した事がありました。互に交話する中、赤松君は氏に対し「君は洵に勉強家だ而して亦忍耐強い仁だ」と申さるゝと、氏は笑つて云はるゝに「僕を勉強家だとは失敬千万、君見給へ、一体勉はつとむる、強はしゆると読む。僕は決して強ゆるものではない、只学を楽むものである。強ゆるものと楽むものとは雲泥の差がある、立身出世をなす仁は、総て事物を楽むのが常である」

と、赤松氏は之を聞いて大に感心されたのであります。

 

(信条と詩業)

 先生の処世訓に「すべて物事は万事控え目にして一歩を人に譲れ」とある。『菜根譚』に、径路窄き処は、一歩を留めて人に与へて行かしめ、滋味こまやかなものは、三分を減じて人に譲りて嗜ましむ。これは是れ、世を渉る一の極安楽法なり。

とあるは、先生の教訓であった。今かりに十だけの仕事をした時、十の報酬を獲れば功利的にはきわめて正しい取引きであろうが、精神的な立場から見ると、貸借相殺の場合で、社会奉仕という仕事は残らない。世に尊いものは無報酬の仕事である。無報酬の仕事を多く積むことが人格の向上であり進徳修養の一路である。十の仕事で五の報酬を得て満足すれば世に五の仕事が残る。全く報酬を得ないで満足すれば仕事が完全に世に残る。こういう無報酬の仕事を陰徳というのである。当然獲べきを捨てて陰徳を積むとやがて陽報がある。こういう人はつねに「心広く体胖か」である。

 先生はどんな仕事でも捨身でかかられた。これは先生を知る限りの人が悉く知つていることである。「そんなつまらぬ本の解釈なんか、おかしくて書けるものか」などと言う者に、むずかしい書の解釈が立派にできるはずはない。また低級な者には講釈できないという人は、たとえ専門の学にすぐれていると言っても、実は無学な修養の不徹底な人物である。

 先生はつねにこんなことを語られた。私がはじめて教師になる時「中学の一年生に教える際でも一時間の授業の下調べを二時間も三時間でもかけてやる心掛けでなければ、人にわからせる講義はできないものだ」とこう戒められた。

  先生の頭脳明晰であられたことは天成であった。これは誰人も異存がないであろう。しかし先生の刻苦精励に至っては人或は之を知るものが少ない。私は世に先生ほどに時を惜しんだ人を知らない。

 先生が書を読んで薄暮に至ると、頭上の電灯を点ずる一挙手の時を惜しんで家人を呼んで命ぜられる。この境に至っては人或は之を理解するに苦しむかも知れぬ。先生の時を愛しむは、かくのごとく甚しかったのである。

 先生は多弁を戒められた。内容空虚な者ほど高い声を出すとされた。御自身すこぶる沈黙の人であった。人に不快を与えるような黙り屋ではないが多言を弄することを好まれず、いつも和かな気分で黙々として人に対された。この先生の沈黙は不必要な言を出されぬということで、必要があれば諄々として縷々千万言も費やされる。散歩の折などに道の傍の草木虫魚について何かたずねると、その和名、漢名より生態、変化或は利用、効用に至るまでおどろくべき該博なお話をなさって、先生の博識にすっかり感心させられるのである。

「言語は君子の枢機である」とは先生の常の言であった。「言うべきは言わねばならぬ。言うべからざるは言ってはならぬ。その言うべきと言うべからざるとの弁別は凡庸の者のよくする所ではない。もし分からなければ言わざるにしかず」と先生はおっしやったのである。「言に訥にして、行いに敏」、これは先生の実践躬行されたところである。

 

 先生がある亡友の追悼録にこう書いておられる。「漢学者はややもすれば銭穀などの理財の業を軽視するの弊がある。これは大いなる繆見で、元の許魯斎が学は治生を以って第一となすと言っているのは実に千古の格言として服膺すべきだ」と。

 これは実に先生の持論であった。人がその死後において子孫を路頭に迷わしむるが如きことあらば生前いかに功業あり学徳ありとも、不知と言うべく、清貧を以って称揚すべきではない。身太平の世に生まれ、士君子となって死後たちまち妻子をして飲食に窮せしむ。この人、果して士君子と称すべきか。世の貧富におのおの二つあって富に清富・濁富といい、貧に清貧・濁貧という。清貧は全くしがたく、清富は全くしやすい。孔子も濁富を不義と言ったのであって、子貢の理財の才を退けてはいない。人は正当の努力と安分の生計とに依って清富を求むべきである。清貧は最も美しいが、少しく誤ると忽ち濁貧になりやすい。しかれども清富は道に志せば、致しやすく守り易いのである。先生の清富論は以上の如きものである。先生はこれを実事上に実現せられた。

***

『虚舟追想録』には徳富蘇峰の「虚舟詩存に就いて」の一文があり、道明の詩業について次のような評価がなされている。

 

 往年朝鮮の湖南鉄道―—大田より群山に赴く途次——の車中に於て、偶然にも、懐中より、何やらの詩集を取り出して、耽読しつゝある一客を見出した。互に名乗れば、それが簡野道明君であった。

 簡野君は、『故事成語大辞典』や、『字源』の著者として、我等も少からず其の恩恵に与ってゐる。而して爾来記者も亦君が羽田六郷河畔の間雲莊の枇杷会に招かれたることを記憶する。

 枇杷会とは庭内の枇杷黄熟する候を卜して客を会するのだ。荘は花木掩映、邸地閒朗、真に江湖澹蕩の趣があった。

 君は昭和十三年二月、七十四歳にして長逝した。今や其の遺集として、『虚舟詩存』は出て来つた。虚舟は君の号である。君は著述を以て、畢生の事業として、曰く、詩は余事のみと。

然も君が詩を嗜むことは、猶ほ酒を嗜むの類の如きものがあつた。

     丁卯七月間雲莊枇杷会酔題

  老樹囲書屋 森森翠欲流

  紅塵飛不到  高臥見雲浮

 (中略)

 要するに、簡野翁は詩人ではない。詩は自ら云ふ如く、余事である。然も其の景を敍し、志を言ふもの、概ね真実に即せざるものは無い。此処に君の本領は自から存す。

 

 

簡野道明は伊予吉田の偉人  7

簡野道明と中野逍遥

  先だって簡野育英会・簡野高道理事長から頂いた、村山𠮷廣著「漢学者はいかに生きたか」は、近代日本に生きた漢学者8名の人物を描いている。その中に簡野道明と中野逍遥という郷里南予の人が取り上げられている。

二人の共通点は、伊達家元藩士の子で幼年期から漢学を習い、やがて東京に出て高等教育を受けている。

 400年前伊達家が南予に入部し、宇和島10万石、吉田3万石の城下ではレベルの高い教育が展開された。

 吉田三傑は、大正12年旧制吉田中学校を設立し、選りすぐった偉い先生をこの寒村に集めた。優秀な先生の下で教育を受けた第1期生3人が帝国大学に入学した。

ブロガーは、この本を見るまで中野逍遥のことを知らなかった。本書から一部引用させて頂く。

 

……中野逍遥は慶応三年(1867)、宇和島城下の賀古町に生まれた。名は重太郎、字は威卿、号は狂骨、逍遙、南海未覚情仙などである。幼時から秀才のほまれ高く、はじめ藩の鶴鳴学校に入り、のち漢学者山本西川に学んだ。明治12年南予中学に入学し、かたわら旧藩主伊達宗城の出資によって設けられた継志館で朱子学を修めた。明治16年、17歳の時、上京して神田駿河台の成立学舎に入り英書を学んだ。

 17年に大学予備門に進み、正岡子規夏目漱石らと知り合った。23年には東京帝国大学文科大学漢学科に入り、27年、この学科の第1回卒業生の三人中の一人として卒業した。

 27年9月に大学を卒業した逍遙はひきつづき研究科に進み、『支那文学史』を執筆、また友人田岡嶺爽、小柳司気太らと雑誌『東亜説林』を創刊した。しかし体調すぐれず肺炎となり、友人らの奔走で市内の山龍堂病院に入院したが間もなく病没した。卒業してわずか2ケ月後のことであった。享年28歳、墓は郷里に建てられ墓誌は恩師の重野成斎が撰文した。

 没後一周忌の28年11月16日に遺稿の漢詩文を集めて『逍遙遺稿』正•外二篇が出版された。友人正岡子規は「外編」巻末の「雑録」に寄せた「逍遙遺稿の後に題す」という一文で逍遙への共感を次のように記している。

 

 志士は志士を求め英雄は英雄を求め多情多恨の人は多情多恨の人を求む。逍遙子は多情多恨の人なり。多情多恨の人を求めて終に得る能はず、乃ち多情多恨の詩を作りて以て自ら慰む。天覆地載の間、尽く其詩料たらざるは無し。紅花碧月以て多情を托す可し。暖煙冷雨以て多恨を寄す可し。而して花月の多情は終に逍遙子の多情に及ばず。煙雨の多恨は終に逍遙子の多恨に若かざるなり。是に於てか逍遙子は白雲紫蓋去つて彼の帝郷に遊び以て多情多恨の人を九天九地の外に求めんとす。爾来靑鳥音を伝へず、仙跡杳として知るべからず。同窓の士、同郷の人、相議りてその遺稿を刻し以つて後世に伝へんとす。若し夫れ多情多恨逍遙子の如き者あらば、徒に此書を読んで万斛の涕涙を灑ぎ尽す莫れと爾か云ふ

    〇

春風や天上の人我を招く

いたづらに牡丹の花の崩れけり

鶴鳴いて月の都を思ふかな

世の中を恨みつくして土の霜

 

***

 ブロガーは、先日、正岡子規のTV番組を録画していた。後で見ると、最近発見された子規の東京大学論理学テストの結果が映されていた。よく見ていると正岡常規の下に中野重太郎と書いている。中野の成績は1学期65、2学期69、正岡は74、82で30人中5位、因みに夏目金之助漱石)は80、90で1位だった。

 逍遙の漢詩は「古詩型の新詩才」と評されるように、近代的な恋愛感情を詠いあげ、島崎藤村ら詩人に影響を与えたという。

 宇和島市和霊公園に、「擲我百年命 換君一片情 仙階人不見 唯聴玉琴声」の詩碑がある。命日の11月16日頃、菩提寺の光圀寺に山茶花の大樹が花盛りになる。逍遥を偲ぶ人々は「山茶花忌」と呼び、集まるならわしとなっている。

 

本書は簡野道明について、佐藤文四郎の小伝を記載している。

 

……著者佐藤文四郎も「先生と著述」の項目のなかで次のように述べている。

 先生の著作は、よく読まれる。その御長逝後においても、読者が増しているという。先生が、著作に対する態度は、全く形容も出来ない程の、真剣さを持って居られた。「私は夜も寝ねずに著作するのだから、印刷所でも徹夜で、校正刷を作って呉れてもよいぢやろう」と言って、明治書院の連中を驚かせたという。著述は実に、先生の生命そのものであった。晩年、宿痾に悩まれつつも、御病牀の上で、校正される。先生は、朱筆を持つたままで、瞑目されたと、言つてもよい位であつた。周囲の者が御病気に障ることを気遣って、書物を遠ざけると、却つてそれが、御病気に障った。先生の著作は、先生の肉を分けて作られたもの、其の中に先生の血が脈々と通つていると言つてよい。だから読者の多いのは、何の不思議もないのである。

 先生の著書のすべては、全く先生御一人の手で、作られたもので、植字以外は、すべて御一人でやられたのである。先生は何回も、何回も、自身で校正せられた。

 先生の著作に対する真剣な一例としては、その著書が出来、一部が先生の許に送られると如何なる大部の物でも、その日の中に必ず丁寧に校閲されて意に満たぬ所には箋を付し、直らに出版社に送り返して次の改訂の参考とされたのである。

 好んで監修者となり自己の勢力を誇示しようとする「学界政治屋」の多いなかで道明のごときは一服の清涼剤である。彼は責任が分散することを嫌って共著も好まず、終生「単著」に徹した学者であった。

『小伝』には次のような逸話も紹介されている。

 先生がある種の本の註釈を為さうと、思ひ立たれると、数年或は十数年に亘つて、材料を蒐集して、準備される。そして一旦筆を下されると、実に神速に運ばれる。それは長い間、あの明敏な頭の中に、順序立てられてゐたものを、するすると引出されるからであつたらう。

 著書に古人の説を引用される場合は、自ら筆写されず、その本から切取つて、自分の原稿に貼付される。原本が如何に貴重な本でも平気である。「勿体ないではありませんか」と言ふと、「出来上ればこの本が、更によいものとなるから、勿体無い事はない」と言はれる。これなどは、先生が御自分の著作に対する自信の程を窺ひ知るに足る話である。

 

 

簡野道明は伊予吉田の偉人  6

間雲荘と徳富蘇峰

 

 道明は、終生の大著である漢和字典『字源』を着想から20余年、大正12(1923)年、59歳のとき間雲荘で完成した。

 蒲田女子高校の第3代校長・田波又男が(1962年就任)「簡野道明先生と間雲荘」と題して著作したものを簡野高道理事長から入手した。

……この間、理事長先生から道明先生漢詩集『虚舟詩存』をお借りして拝読した。先生は経学の研究が本体で漢詩は余技であると言われ、生前はおりにふれ時に望んで多くの漢詩を作られたが、発表されず他界された。先生没後一年を経て、佐藤文四郎先生が編集されたのが『虚舟詩存』として残された貴重な漢詩集である。

 その中に間雲荘を詠まれた漢詩が十数詩ある。道明先生年譜を見ると「大正十一年壬戌五十八歳『補註孟子集註』成る。此歳築一草堂干羽田萩中六郷河畔爲讀書之處命曰間雲荘爾後及長逝大率居焉」とある。

先生はこの地をこよなく愛し、多くの名著を作られた。

私の生まれた明治三十四年、先生は三十七歳で『中等漢文読本』全十冊を完成された。(中略)

 学校建設の前は庭園広く菖蒲池あり、松林あり、果樹園あり、びわ、桃の木が植えられてあった。現在は松の木が数本残っているだけだ。あとは附近の学校に寄贈されたという。これも戦災でほとんど焼失されたものと思う。このほか初代理事長信衛先生は、こよなく竹を愛し、号を有竹と称したほどである。本校の同窓会を有竹会と名づけたのもかかるゆえんである。

当時間雲荘には各種の珍しい竹が植えられたが、今は種類も少なくわずか「矢竹」が数株残っているくらいである。竹を詠んだ漢詩に「園中花灼灼風雨忽摧残我愛窗前竹猗掎傲歳寒」と竹を称えている。

なお本校の創立記念日が六月十四日とあるので理事長先生にお聞きしたところ、毎年その頃天下の文人墨客をお招きして園遊会を催したのでそれを記念して定めたとのことである。その当時招待された客の一人として徳富蘇峰先生が道明先生の胸像の銘を作られた。原文は漢文であるがこれを訳すと次の通りである。

 

 先生は簡野氏、諱は道明、號は虚舟、世々伊豫吉田藩に仕へ、幼くして學を好み、業を先君子に受く。年甫十八、郷學の教職に任ず。年二十八、慨然として東都に遊學し篤學を以て顯はる。後に女子高等師範學校教授と為りて令名有り。年五十有餘にして感ずる所有りて職を辭して居を羽根山間雲莊に卜し、専ら力を撰述に肆(ほしいまま)にす。昭和戊寅二月疾に罹りて没す。亨年七十四。先生は資性堅剛、耿介苛しくも世と俯仰せず。精敏彊記諸子百家博く渉らざる莫し。最も古今の典故に精し。兀兀として鉛槧を事とし、老に到りて倦まず。一篇を出づる毎に脛無くして走ること千里、到富渠萬、自ら處して晏如たり。恂恂如たる老書生。平生它の嗜好無く (して)只遊歴(する)のみ。興来れば小酌詠吟、自ら楽しみて詩人為るを屑よしとせず。始終只だ學を好み疾劇しくも枕頭尚ほ朱墨を用ひて研鑽を事とす。亦、其の養の素有るを知るべきなり。銘に曰く、

讀書萬卷 著作等身

志名教に存し 其の道泯びず

昭和辛已歳仲春 友人 蘇峰徳富正敬 撰

 

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簡野育英会のHPに学園紹介エピソードのページがある。

 

道明・信衛先生胸像と銘

  現在の間雲荘には、学祖 道明先生、創立者信衛先生の胸像が据えられています。

 学祖 道明先生の胸像は、その偉業を称えるために、簡野家の遠縁にあたる彫刻家 柴田佳石先生(本名 簡野福四郎)によって制作されました。佳石先生は、日展に委嘱出品を続け、後に慶應義塾大学三田キャンパスの『福澤諭吉胸像』の作者としても知られています。

 また、かねてから親交のあった歴史家 徳富蘇峰先生が、道明先生の胸像の銘を作られました。昭和41(1966)年の創立25周年に際し、創立者 信衛先生の胸像が、同じく柴田佳石先生の手により完成され、同年11月5日、間雲荘で生徒代表も参加して、除幕式が行われました。これにより学園の聖地 間雲荘に学祖・創立者先生をお迎えすることができ、ご夫婦が揃って本学園の教育活動を見守り続けておられます。 

 間雲荘には現在でも枇杷の木が残っており、毎年6月には実がたわわに実ります。また当時は大小色とりどりの菖蒲が咲く見事な心字池がありました。毎年6月14日前後には、多くの客を招き「園遊会(別名・枇杷会)」が開かれていました。会は数日間にわたり開催され、延べ500人が出入りする大々的な催事でした。雑誌『国民之友』発行に携わった歴史家 徳富蘇峰先生(作家徳富蘆花の兄)を始め著名人から近隣の方まで、多くの来客が押し寄せ楽しんだといわれています。この会の開催は、道明先生の「社会への還元」のご意向が大きく反映されています。日頃は『字源』をはじめとする多くの著述に専念するために、門を閉じ客を謝していたので、この園遊会が間雲荘に人が集まる年にただ一度の機会でもありました。先生はこれを何よりの楽しみとされ、心の限りのおもてなしをされたと言われています。

 この枇杷の実が熟し、菖蒲の花が咲く時期の園遊会を記念して、毎年6月14日が本学園の創立記念日となっています。

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 徳富蘇峰は、山下亀三郎物語『トランパー』でも度々登場した。蘇峰は道明が催す園遊会に度々出席しているはず、その折、同郷の亀三郎について会話を交わしていると考えるが、文人墨客が集まる所では、政商と云われた亀三郎は門外漢だったのだろうか。

 ブロガーは3月11日、簡野高道理事長を訪ねた。庭に御案内され簡野道明翁、信衛夫人の銅像を見せてもらった。蘇峰の銘を刻んだ石碑は古くなり、殆ど読めなかった。今では幼稚園児らが銅像の周りで遊ぶいい空間となっている。

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(ブロガー撮影:蒲田女子高校校庭)