2022-10-01から1ヶ月間の記事一覧

がいな男  25 渋澤栄一と論語

渋澤栄一が著した『論語と算盤』(孝らしからぬ孝)のくだりは、心学を普及させた江戸時代の中澤道二『道二翁道話』の一節を引用したもの。 ——近江の有名な孝子が、信濃の国に有名な孝子がいると聞いて面会に行った。 家には老母がおるだけで、息子は山に行…

がいな男  24 吉田三傑

がいな男の乳兄弟「清家吉次郎」は慶応2年、吉田藩河内村に生まれた。二人は仲良く圓通寺の小学校に通った。吉次郎は愛媛師範学校(現愛媛大学)を出て、教員、校長を歴任し南宇和郡の視学(教育行政官)を務めた。その後、政治家に転身し県会議員、国会議員…

がいな男  23   戦後の不況

大正10年になると、欧州大戦後の不況風が厳しくなった。株価の大暴落は、全国の各銀行で取付け騒ぎを起こし金融機関は大混乱した。バブル崩壊は多くの成金たちをのみ込み、横浜豪商の茂木商店、安部商店、増田商店が倒産し、鉱山王の久原房之助は事業を投げ…

がいな男 22 面白い部下

がいな男が成功したのは、優秀な社員を採用したことである。田中正之輔は京都帝大を卒業、大正6年4月に入社した時、手当35円の辞令を貰った。だが手当と給与は違う、7月には給与は65円と決まった。帝大卒30円のころで破格の扱いだった。辻は大正7年、東京高…

キンドル本を出版 (子規とあんやん)

9月19日は、正岡子規没後120年の「糸瓜忌」でした。くしくもこの日は、イギリス連邦王国女王・エリザベス二世の国葬がありました。 がいな男の竹馬の友で、「吉田三傑」の清家吉次郎は、子規居士と縁があります。明治33年、吉次郎は根岸の子規庵を訪れ、子規…

がいな男 21 三菱の接待術

がいな男は、昭和13年、岩崎弥太郎の生まれた高知県井ノ口村を訪ねた。亀三郎は16歳で「俺は太政大臣三条実美のようになるんだ!」と言って故郷を後にしたが、その後は「岩崎弥太郎になる」と趣旨を変えた手前、弥太郎の実家に行ってみたいと考えていた。そ…