戦国武将・土居清良という男 2


「戦国 伊予の聖雄 土居清良」は平成29年12月発行で、発行者は(ひの心を継ぐ会)三浦夏南氏である。今後はこの本を本書と称して展開したい。 

  本書には(序)に続いて(その一族)を記している。 

 11代土居清宗(早雲)は14人の子供がいた。長男12代家嗣の清貞、父石城入城後、大森城を死守、石城の危機に臨んで敵軍を突破して石城に入り全軍を指揮した。次男清影、後に出家大禅門という。三男清晴は清良の父で将軍義輝に謁見、志摩守に任ぜられた。四男清永、五男清象は犬尾城を守り屡々大友軍を破る。六男清由、七男宗明、八男宗真、九男宗信、十男与一は九島願成寺に入った。十一男宗光馬術に秀でていた。十二男忠宗、十三男為友は強弓海南無比、道後の河野氏を援け毛利の大軍に夜討ちをかけて再三打ち破った。十四男は薄雲とて出家し鉄首座と号した。

 清宗は、これらの子供を縦横に走り回らせ西園寺を守った。

これらの豪勇なる男子を産んだ清宗の夫人、大加美妙栄(おおかみみょうえい)は一世の女傑だった。夫人は道後湯築城主・河野通頼の息女で西園寺実充の伯母に当たる。

女傑はこの一族を以って天下に野心を燃やし、西園寺の下に碌々として朽ちるを潔しとしなかった。

 ある日夫清宗に「14人の子供何れも優劣なし、6人の婿何れも名のある者。孫も含め一族郎党合せて300余騎、その家来500人を超える。先ず西園寺に押し寄せ黒瀬城を取り、諸城に触れを成して人質をとり、道後を攻めて河野の人質を取り旗下にして、阿波、讃岐、土佐を亡ぼし一度天下に旗を立てん事、それ程の手間は取り申す間敷く候」と語った。

  筆者の竹葉英雄氏は(私も又この一族が四国を統一して楓の旗を中央に進め、天下の英雄たちと思い存分覇を争う光景を見たく思う所だ)と記している。

 

本書に戻ると、 

 然しながら清宗は答えて曰く、

「男たらん者心なきもの非ざれども、栄耀は風前の塵と白居易は言い、富貴は草頭の露と杜甫は作りしぞや。古の賢者、許由は穎川の流れに天下の譲りを聞いて耳を洗い、伯夷、叔齊は首陽山に餓死し、子陵は三公にも変えじと江山に翫しみしぞ。思へば丑寅子は、『とるもうし執らねば物の数ならず捨つべきものは弓矢なりけり』と読み、聖徳太子は子孫なからん事をと心深く思召され候とか、天気を稟けて万物生すと雖、夫皆土より土に帰るなり。悪しきものは物に不足を思い、未遂げて天下を納め済しては唐土を望むにいたるべし」

 烈々たる力に燃ゆる一族郎党、仏老の世界に深く世を観じたる清宗、この大森山上の空気の中に虎松丸清良は生長しつつあった。

 

清良が誕生したのは天文15年(1546)、足利義輝が13代室町幕府将軍に就任、武田信玄信濃侵攻を開始、上杉謙信春日山城に入城した頃であった。

 

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三間町・宮野下駅(ブロガー平成30年5月撮影)

予土線の宮野下駅の南に清良神社があり、土居一族の居城「大森城跡」は東北2キロの元宗にある。