吉田名所大観(昭和19年)立間、喜佐方、玉津の絵

 この辺りが昔の宇和郡中心地だった。吉田という地名になったのは江戸時代、宇和島藩伊達秀宗が五男の宗純に3万石を分知したのが始まり。宗純は、立間川、河内川の河口に生い茂る葦の原を、周りの山を削って埋め立てた。町人町と家中町という町割りはその時出来たもので、その昔は葦の中、海の中だった。

 立間駅辺りに昔の集落があり神社仏閣が多い。山を越えると喜佐方があり、当時はここまで潮が満ちていた。喜佐方は喜佐潟と言っていたみたいである。

名所大観には法花津湾と書いているが、玉津は港があり津々浦々とはこのような所か、定期船が昭和30年代まで運航していたそうである。玉津海水浴場と有るのは、法花津の浜の事だろうか?母の実家が法花津で浜でよく遊んだことを思い出した。今では道路が出来て浜が無くなった。昭和30年代は吉田横堀から法花津に行くバスでよく車酔いした。

玉津の上が法華津峠で展望台があり、トンネルがない時代は峠までのくねくね道をバスで越え、宇和町八幡浜に行った。

 筋に山下別館と有るのは山下亀三郎が母敬の為に建てた「鯨御殿」で、親孝行の亀三郎は、大正船成金時代に母に鯨の潮吹きを見せると云って茅葺の立派な家を建てたが、母は長く住むことはなかった。その暮、89歳で大往生した。

 立間役場の上に大乗寺がある、臨済宗妙心寺派の禅寺で伊予吉田藩主のお墓がある。

八幡神社は吉田藩創設頃から始まった「吉田祭禮」の本拠地。吉田秋祭りは今でも連綿と続いている。周りにみかん山の字があるが、立間はみかん栽培の発祥地で昭和初期は生産量日本一だった。吉田は、春にはみかんの花が咲き、甘い匂いが街を漂う。秋は周りのみかん山が黄金一色になる。

 大観案内には「東京始め京阪神及び大陸地方まで嘖々の名声を馳せている宇和蜜柑は我街の特産で早熟と甘味で海内一と称せられ、年産額五百万貫、秋収穫期の繁忙と盛況は丘から街へ街から船へ!埠頭に黄金の山を築く。宇和蜜柑出荷組合の組織成り益々販路の拡張を計っている。蜜柑の熟した頃の山々の美観はまた格別で地方人士の秋の行楽の尖端を行くもの、豫南の一名物である」とある。

   燕子  

    短夜や伊豫と豊後の水の道

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