戦国武将・土居清良という男 15

 不義を許さず 

 天正2年中、清良は長宗我部元親宇和郡侵攻に対し幾多の戦いを強いられたが、総て清良の予言が的中し敵を退けた。中でも近畿まで名を轟かせた「土居七口の槍」という合戦は、1日12度の激戦があり、敵の大将山内外記以下実に785人を討った。

元親は三間に兵を出すこと10度、戦うこと24回悉く利あらず。遂に土居清良を恐れ、北望の念を断じ、織田信長の威勢を望んで上洛、嫡子に信親の名を授かった。その後元親は阿波に侵攻、更に東讃岐を略した。

一方、豊後大友も一条没落後、天正始めより7年まで38度来襲し、法華津秋延、御荘勸修寺、屡々敗れ疲れ、土居勢ひとり小勢にて撃破した。

 本書『土居清良』によると、

清良、元親を評して曰く、

「元親は言甲斐なき者にて、如何なる行末(素性)の人かは知らねども、前世の因果なりと見えて弓矢を取広け今は人となれり。然りと雖も恩を知らず、その上策ばかりして表裏あり。手強き軍一度もしたりや、その沙汰を聞かず。大将たるは弓矢を手強く取って、少人数を以て大敵強敵を破り、またその場の見聞を以て作意をなし、武略して危うからず。また慈悲を第一として義を立て、礼儀を厚くして智を広め、信を深うして神仏を尊み、法を立て疑わしきを明にして罪人を導けば、謀らざるに自ら謀あらん。元親国を取広めたくのみ思いて、一人の敵に三十、四十の謀をする。起請文も我聞いても五十枚に余りて書きたらん。身の血をあやすこと後聞の思いやりは恥しからずや。人の信あれば起請文は入るべからず。神仏をあざむくことまことに許すべからず」

道を行う以上の謀はない。天地自然の大道(人のふみ行う正しい道)に立つ以上の強きも

のはない。清良は常にその大道に立ち、不義を不義とせず神仏を欺く姦雄、元親を断じて許さなかった。

と記されている。

 

 毛利をして千古の名をなさしむ

  天正3年、織田信長の勢いは中国地方に迫っていた。毛利輝元(隆元の長男)は信長の西下に道後河野通直に加勢を乞うた。河野は西園寺公広に通じ土居式部清良が援軍を要請された。

清良は小早川隆景の軍に加わり福山城を攻めた。隆景は城を包囲し土居勢先ず城中に斬り込み、土居佐兵衛は城主福山丹後を打ち取った。

 天正4年、毛利輝元再三の援軍要請により、清良はやむを得ず総勢500余騎で小早川勢に加わった。目指すは丹後を蹂躙した明智日向守光秀の亀山城。信長は3万余騎を応援せしめる。清良は丹波口の丹羽軍と対し強力な鉄砲で敵の的を外さなかった。明智軍城を捨てて退く所、土居勢追撃し敵将数多討ち取った。更に因幡鳥取城、出雲富田城を陥れた。

 天正5年5月、輝元より黒瀬城西園寺公広に加勢の飛脚が来た。公広は諸将を集め評定、清良の意見に随うべしとなった。

式部大輔決然として曰く、

「今まで義を以て加勢ありしことなれば今度衰勢ありて加勢せざるは武士に非らず。運は天にあり。死は義にあり。何ぞ上方の競いたちたるを恐れて加勢をこばまんや」と。

清良は烈々たる義侠心を見せ、この度は死を決し、五百騎を提げ打ち立った。

 本書には、

 時に、亀山城は再び光秀の奪うところとなり、更に筒井順慶、瀧川一益、羽柴秀吉丹羽長秀に五万騎を付して加勢せしむ。清良二千騎を以て丹羽勢一万騎の押しかかるを七度まで追い散らし、殊に桜井武蔵の軍法は巧妙を極め、甲州山本勘助に劣らずと敵味方に喧伝せられた。四月二十九日丹羽勢押し寄せ鉄砲を放つ。土居勢これに応じて崩せば郡内勢二千余騎これを追う。清良止めんとすれども二千に余る軍兵ままならず、案の定、明智勢一万騎に押し包まれ危く見えた。輝元の検視吉川式部小輔これを見て清良に議る。清良自ら弓手の田間を迂回し敵の右翼に出て鉄砲を浴せ悩むところに、「土居清良と申す田舎武士にて候」と呼ばわり突かかれば、敵大勢なれども表に進む兵多く討たれて二陣に引退く。とある。

5月17日織田勢退く。これを追撃すれば羽柴、瀧川、明智丹波、筒井代わる代わる殿軍して走るのを4680余人を討ち取った。

 天正6年3月、尼子勝久を奉じて尼子家の再興をすべく一世の豪傑山中鹿之助は上月能城を死守して降らず。毛利13万余騎で攻めるも抜けず、信長は大兵を向け一挙に毛利を崩さんと仕掛けた。輝元、吉川、小早川の応援に清良は又しても出陣した。窮地に立った隆景は清良を呼び戦略を乞うた。

 本書には、

清良、

「某などは片田舎にてかかる大戦は夢にも見ず、清良に尋ねらるるは木に縁って魚を求むる如しと存ずれど、かくほど言わるるに申さねば如何。信長左様に四囲八境に敵多くならば、これ出陣して日数を廻らせば、国々蜂起疑い無かるべし。味方は陣を堅く軍をゆるやかに、制法を強く軍役を弱く、士の心を合わせて待軍になされば、将軍永陣疑いあるまじ。例え他方起らずとも信長は此頃競い口なれば、短気の軍のみして是非を論ぜずがさつなるベければ、味方心して戦えばその軍の利は此方に御座有るベけれ」

隆景喜びて清良の言に従い、陣を堅め軍をゆるやかに士気を養って疲れしめず。隆景今は清良を唯一の相談相手とした。とある。

隆景は秀吉と大川を隔てて退陣し共に鉄砲で打ち合ったが三町に及んで達せず、清良は3500の伊予勢を隅見川に出し玉木鉄砲助に指図し一斉に発砲すれば、秀吉軍陣地に命中倒れるもの数知らず。狼狽して退く敵も味方もその鉄砲に奇異の思いをしたという。

清良は遂に鹿之助と対峙することになる。土居の若い衆は「山中鹿之助何ぞ恐るるに足らず桜井武蔵に任せて誘い出し土居勢打ち向かうべし」と力戦し首117を取る。中でも玉木八十郎は鹿之助の甥猪助を討ち取った。これを機に毛利勢は遮二無二に攻撃を加えて攻め立て、流石の山中鹿之助も遂に力尽き上月城は落ちる。

織田勢また如何なく8月兵を引き払う、清良時に33歳。

毛利輝元は永陣の労を謝し言を改めて、

「毛利に吉川、小早川、両川あるは鳥の両翼に異ならず。されど隆景には嗣子無く、卒爾ながら御貴殿の御子息を給え」とあり、清良おって返事を約して弓矢の物語に夜を更かし、輝元長盛の太刀を贈り、吉川春次を見送らしめた。毛利一族が如何に南海の一侍大将に過ぎない清良を信頼したかはこれにても知らるるであろう。

後、天正十四年十二月、嫡子太郎重清十五歳となるに及んで従者五十人を添えて送る。輝元、隆景大いに悦び、名を改めてその二字を取り、小早川内記元隆と名乗り小早川を継ぐ。惜しい哉。二十歳にして病みて倒る。元隆にして生きてあらんか。関ヶ原の戦その帰趨するところ知られなかつたかも知れぬ。

 天正10年3月、また毛利に加勢す。秀吉播州高松の城を攻める。清水兄弟奮戦して降らず、秀吉は水攻めに及んで城兵の命を乞い清水兄弟は悲壮船を浮かべ屠腹する。

 時に本能寺の変あり、秀吉は「兵を退けて光秀を討たんとす。尚和議を調えるや」と、毛利諸将は時来たり、背後より迫りてこれを討ち、旗を天下に立つべしとする。

 清良、隆景に

「これ義兵なり。而も明らかに事を告ぐる器量称すべし。一度約せし和議破るべからず」とその不可を説く。隆景亦然りとし、或は本能寺の変詐りにても毛利の心を見んとの計かも知れずと、諸将を説きて遂に和議を調う。清良、真吉甚内、堀口辻之助の両人

を送り、その吊合戦を見せ且つ応援せしめた。

清良、毛利をして千載の下義名を全からしめたと言うべきである。

と、本書に記されている。