2017-05-01から1ヶ月間の記事一覧
本ブログで長らく続いた無逸伝もエピソードを数点掲載し終了する。酒在京愛媛縣人の有志が議会開会中に縣出身の代議士を招待し慰勞の莊を張つた。芿家氏は會場で相當飲み、それから又二次會だと云ふので、村松恒一觔氏と宇都宮政市氏と三人で飲んで、陶然と…
清家氏の葬儀は三月ニ日午後一時から、氏が此世に遺した形見の一つである吉田中學校に於て行はれた。吉田町外五箇町村の合葬といふことであった。 式場に定められた校庭はすっかり掃き清められ、靈壇の中央にはその位牌(清涼院淡然明快居士)を安置し、伊達侯…
芿家氏の發病は昭和八年九月末顷からであったらしい。當時左鎖骨上窩部の淋巴腺腫脹があり、胃の工合も惡いといふことだったので、診察した吉田病院長伊東一生氏は直に胃癌の轉移であらうと考へた。由來胃癌にして銷骨上窩部に淋巴腺轉移を生ずる時は、これ…
浦幡の池で鶯の鳴き声を収録 毎年、此処では鶯の声が聞こえる 春も終わり、そろそろ入梅か マンションに3、4年前植えたエラブユリが いつの間にか群生した ガーデニング倶楽部の手入れが行届いている 6月の初めには1茎に多くの花が咲き誇る 三句 鶯の姿見…
「歐米獨斷」の旅から歸って間も無い頃の話である。 別府から大阪に向ふべく、紅丸に乘つて甲板に上つて見ると、チェアーに腰を下して瀬戸内海の風景に見入ってゐる老人があつた。一等船客にしては田舍臭いなりをしてゐるので、芿家氏は何處かの豪農位に考へ…
臨時議会6月6日の予算総会第3回目に小波乱があった。 児玉議員が齋藤首相に「国民窮迫の折、徳政を断行する考えはあるや無しや」と問うたが、首相はシドロモドロ。ここで吉次郎は「首相は徳政という言葉をご存じない、一国の総理大臣として言語横断である」…
無逸伝に「芿家代議士と支援団体無逸會」とあり、 …芿家氏が衆議院議員に當選したのは昭和五年二月と、昭和七年二月の總選挙の時であった。元來云へば今少し早く代議士たるべきであったのであるが、愛媛縣民は代議士たるよりは矢張り愛媛縣會議員の芿家とし…
《吉田病院の設立》 吉次郎が町長に就任した翌年頃には吉田町に病院を設立する機運が起こり、吉次郎はその計画を立て寝食を忘れて設立に向け没頭した。欧州大戦後の大恐慌が起こった大正9年に資金を集めたが、大戦で儲けた余力があり存外に資金の見込みが立…
(山下高等女學校の創設)と題し無逸伝にはこう記されている。…芿家氏が町長就任に先って、第一に計画したのは女學校の設立であった。これは芿家氏自身にとつては,かなり古い問題であって、明治三十七、八年の切、西宇和郡視学として八幡濱商業擧校の創設に…
㈱海南新聞社・大正12年11月発行の「愛媛県人物名鑑」北宇和郡の部に清家吉次郎のことが詳しく掲載されている。芿家吉次郎吉田町長 県会議員 北宇和郡吉田町北小路甲48番地 慶應2、9、14生 妻 リヨウ 明治3、10、30生 長男 美材 仝26、9,3生 …
ブロガーは最近、吉次郎の自伝を入手した。教員、校長、郡視学時代は、以前のブログで紹介したが、吉次郎が教育界から政界へ転身するその姿を追った。(愛媛縣會に現はる) 芿家氏が始めて縣会議員に當選したのは明治四十四年十月の總改選の時であった。知事…
8月18日朝四時ワルソーを発しモスコー着 〇盆過ぎて夜寒朝寒覚えけり モスコーの狭き都に人おほし折重なりて住みやするらん 死顔の活けるが如き冷忍の墓詣でする人の幾町 20日夜モスコー発21日夕 村雪の残る如くにあつき日の入れば草野を霧の這ひぬる 22日朝…
永かった欧米独断の旅も最終章になった。清家吉次郎は8月18日モスコーに到着した。 革命以来の露西亜の真相は皆目分らぬ、シベリア経由で帰朝を幸いに且三日間はモスコー滞在が可能といふから、モスコー行きに乗って次の極東行きの来るまで、同地で視もし調…
仏蘭西国の現状が少なくとも財的個人主義と為りはててその私有財資を投げ出して国家を救うの挙に出でず徒に独逸を壓服することに汲々として軍備の為には財政をも顧みず敵なきに重甲利兵を身に付けて動きの取れぬ態たらくなるを気の毒に思った吾々も独逸に入…
初めて近くのゴルフ場の催し物に行く 9ホール歩いて回りスタンプを押してもらう 抽選でお米が当たった いい天気でwife機嫌がいい・・・ 5キロのコースを2時間で歩く ここは4,5回プレーしたことがあるが今は昔の話となった 昭和37年の開場で55年目と言う…