2018-08-01から1ヶ月間の記事一覧

吉田三傑「村井保固傳」を読む 29

陶磁器製造に工場制度(附 ローゼンフェルト) 日本陶器会社が創立され西洋の新式機械を導入した。先ず純白生地が出来て八寸皿の大物も強生地で立派に出来る。これに日本特有の意匠と技巧を加味し鬼に金棒となった。それにより製造高が激増、明治38年の窯出…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 28

村井から見た森村組発展の五期 後年村井は、森村組発展の跡を辿って5期に分けてみた。 第1期…創業より明治28年日清戦争に至る、小売りより卸売りに転じ発展の第一歩を踏み出した。 第2期…明治28年より日露戦争を経て、明治41年頃に及ぶ期間、絵付工場を統一…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 27

白生地と強生地完成の苦心 (2)白生地の製作は森村組百年の発展に絶対の必要条件だった。 その以前に、松方侯爵の紹介で東北出身の斎藤某が多年研究の結果、白生地の製作に成功したと見本を携えて森村のもとに来た。此方は長い間の懸案事項で紹介者が松方…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 26

白生地と強生地完成の苦心 (1)村井は紐育で懇意の米人に「東洋風の畫付けでは見込みがない、西洋で売るのだから西洋風の畫付けをやってはどうか。こういう西洋式のスミレ模様などは出来ないか」といわれ見本をくれた。23丁目の大店経営者ヒギンサイダーは…

2度目のブルーベリー狩り

朝のうちにブルーベリー狩りをする もうお仕舞らしいがまだ残っている カブトムシが一杯網に引っかかっていた 今年は暑いせいか何時もより数多し この辺は十余一といって昔の開拓地で 柏にかけて十余と付く字が多い、十余二、三… この梨園は先々代が始めたと…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 25

肺病に罹る一応の協定が成立した頃、村井はウイーンの街で吐き気を催し、物陰で試みると正に喀血である。無理をして渡欧した祟りか、一人一行と離れ紐育に帰着、キャロライン夫人の出迎えで直ぐに、リバチー病院に入院静養する事にした。当時の肺病は先ず死…

暑気払い

HO会の司会進行とカラオケで朝から忙しい ビデオプロジェクターを搬入、スクリーンをセットし 音響と接続しているうちに時間 60名程の後期高齢者が集まる、年よりも気ままで司会者が 時間ですと、いっても中々席に着かない フラダンスはメンバーとその仲間…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 24

森村組の特色と弊風改良 元来、森村(6代目市左衛門)は勤勉力行を5代より相続し、豪宕不覊を4代目に享けた。 自分は丁稚小僧から出立、あらゆる商売に携わり、辛苦経営の功を積むその間に、一種の風格と気骨を鍛え上げた。尋常市井の商人とは肌合いを異にし…

吉田三傑「村井保固傳」を読む  23

両親へ孝養 米国人のキャロライン夫人が自ら毛糸の編み物をして、村井の両親に揃いの下着を送ってくる。實父も村井への手紙にキャロラインによろしくと、芳情を寄せることを忘れない。村井からは實父と友人に白毛布を送った。更に年賀廻りで両親には祝儀、實…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 22

第二の帰朝 明治18年、2度目の帰朝は新婚旅行であり、故郷へ錦を飾るものだった。粗末な日本家屋でキャロライン夫人と日本流の起居をともにした。村井は布団から夫人の足が露出するにも不平一つ云わない本人の迷惑を察し、冷や汗をかいたと後年の自白である…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 21

結婚 村井下宿先のダットレー夫人はその頃の紐育には珍しい親日家であった。高橋新吉、藤井三郎など紐育駐在の日本領事を勤めた一流どころを始め、新井領一郎、森村豊、村井など選りすぐった日本人が納まり、他にも米国人の勤め人や学生連も泊まって相当繁盛…

お盆の十余一

ニュータウンのお盆は静かだ 十余一池は赤とんぼ、オニヤンマが群れ飛ぶ モネの水蓮が咲いている 百日紅を観ながらGSの珈琲で一服 風が吹くと体感温度が下がるが真夏日だあ 湿度があり汗がにじむ、夏太りの姿に汗がタラリ一句 十余一の亀になりたや燃える…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 20

森村翁と衝突村井が大阪で仕入れた提灯30箱で森村と衝突し、大倉が中に入って収めたことはブログ本に掲載したが、保固伝には(これが前後50年の長年月を親子の如く兄弟の如く親密に通した両人の間に於ける唯一の大衝突で、所謂雨降って地固まるとは此の事で…

ブルーベリー狩り

近くの梨園でブルべリを食べる、今日は日曜日で家族連れが多い 今年は東京の人をお連れした、wifeとじっくり時間をかけ採っている 入園料なしの食べ放題、採った分は目方売りだが格安 看板も案内もない、口コミのみで商売気がない 公務員と二足のわらじで農…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 19

第1回の帰朝明治14、15年の日本は西南戦争後の不況に襲われ、米国の経済界も同じ不振の状態であった。豊さんは過労も応え健康を損ね、日本に帰って銀行でもやろうと弱気だった。村井は目前の不況はさることながら将来は洋々たる春海の希望がほのめいている…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 18

豊さんの人格 村井の間口が図抜けて広いのと反対に豊さんはまた奥行きが至って深い。 兄森村市左衛門が服一着の事で、店員の粗忽をお詫びする為大坂に往き、人力車で和歌山迄お得意さんに陳謝したという商人美談と似通った例を豊さんは紐育で作った。 米人店…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 17

値段附けの改良 村井は日本からくる品物に1弗のものは3弗と符牒を付けていたのを、商売仲間のギリシャ人の話からヒントを得た。つまり「Taste is not disputable」という古いことわざを聞かされて米国人は品によっては原価の4倍5倍でも喜んで買うということ…

花の丘吟行

朝起きると久々に小雨 (アサガオの水滴うけて生き返り) 花の丘公園まで散歩する (涼しさや時雨に消える蝉の声) ひまわりが早くもシオレテお辞儀する (恵みあめひまわりの花腐りけり) 柿の実が色づいてきた秋の気配が感じられ一句 (青柿の色づく里に濡れか…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 16

豊さんとの初対面 汽車の長旅に退屈する。慣れないパン食に腹は減るや何やで、デンバーを過ぎシカゴを経て紐育に着いたのは日本を立ってから1か月目の10月2日であった。 森村組の店は第6街コートランドにあり駅から相当離れている。同伴者と別れて一人ぽつん…

同級会写真

母校の同級生が道後に集まったのは3か月前 まさか故郷が豪雨被害に遭おうとは… 幹事が地元新聞社の「卒業しても」に投稿し復旧中に掲載された この記事が今日郵送されてきた いつもの様に心配り(前を向いて頑張りましょう)の手紙である 8月、HO会はお休…