2019-03-01から1ヶ月間の記事一覧

簡野道明は伊予吉田の偉人 9

死ぬまで執筆に専念 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に道明の人物が記されている。 =戦前の中等教育の漢文教育の権威であり、彼の編纂した教材は多くの中学校などで使用された。高見順の作品「わが胸の底のここには」、加藤周一の回想記『羊…

簡野道明は伊予吉田の偉人  8

小伝に書かれたエピソード (著述の日々) 先生がある種の本の註釈を為さうと、思ひ立たれると、数年或は十数年に亘つて、材料を蒐集して、準備される。そして一旦筆を下されると、実に神速に運ばれる。それは長い間、あの明敏な頭の中に、順序立てられてゐ…

簡野道明は伊予吉田の偉人  7

簡野道明と中野逍遥 先だって簡野育英会・簡野高道理事長から頂いた、村山𠮷廣著「漢学者はいかに生きたか」は、近代日本に生きた漢学者8名の人物を描いている。その中に簡野道明と中野逍遥という郷里南予の人が取り上げられている。 二人の共通点は、伊達家…

簡野道明は伊予吉田の偉人  6

間雲荘と徳富蘇峰 道明は、終生の大著である漢和字典『字源』を着想から20余年、大正12(1923)年、59歳のとき間雲荘で完成した。 蒲田女子高校の第3代校長・田波又男が(1962年就任)「簡野道明先生と間雲荘」と題して著作したものを簡野高道理事長から入手…

簡野道明は伊予吉田の偉人  5

心血を注いだ『字源』を刊行 道明が勤めた東京女子師範学校は、1949年「お茶の水女子大学」に改称された。国立の女子大学は、同校と奈良女子大学の2校のみである。 お茶の水女子大デジタルアーカイブズに、道明の写真が残っているので引用させて頂く。 明治3…

坂村眞民先生は癒しの詩人

しんみん先生が好きなタンポポの季節になった。朴という木も先生は好きだった。ほおの木を知ったのは、ウオーキングクラブで物知りの老女が教えてくれた最近のこと。何時も休憩する所に、香りのいい白い花が咲いていた。 先生の詩に、朴とタンポポという詩が…

簡野道明は伊予吉田の偉人  4

結婚/東京へ 本ブログは、平成22年(2010)名古屋大学大学院・文学研究科中国文学教授の加藤国安氏が、吉田ふれあい「国安の郷」で『簡野道明の若き日の足跡を訪ねて』と題し講演した資料を参考にしている。先生の名前が国安というのも何かの縁であろうか。 …

簡野道明は伊予吉田の偉人  3

代用教員から師範学校へ/教育者の道 道明は、明治13年16歳の若さで東宇和郡白髭小学校(現西予市野村町)の代用教員となった。吉田から数里離れた山間部で、両親の許を離れ一人で小さな茅屋を借りて住んだ。家の前には荒間地川の清流が流れ、水を汲んで顔を…

簡野道明は伊予吉田の偉人  2

生立ち/小学時代 簡野道明は慶応元年(1865)、伊予吉田藩の江戸上屋敷、南八丁堀で生まれた。幼名を米次郎といった。父は、吉田藩士の簡野義任で江戸定府の士だった。明治2年、米次郎五歳の時、版籍奉還で一家は江戸を引き払って吉田へ帰った。 菅野家のルー…

「簡野道明」は伊予吉田の偉人  1

蒲田女子高等学校を訪問 東京は京浜急行空港線糀谷駅の近くに「学校法人簡野育英会」がある。学祖・簡野道明の遺志を継いだ信衛夫人が、昭和16年「蒲田高等女学校」を設立した。今では蒲田女子高等学校、蒲田保育専門学校として女子教育、幼児教育を行っている…