幻の空母「信濃」と工業塩基地・三ツ子島


 NHKドキメンタリーで幻の巨大空母“信濃”~乗組員が語る 大和型“不沈艦”の悲劇~という番組があった。

何気なく見ていると最後の章で三ツ子島が出て来た。テレビに島の航空写真が現れ「これは塩の基地、三ツ子島じゃないか?」と驚いた。

 6万7千トンの世界最大の空母・信濃は工期4年、竣工してたった10日後の昭和19年11月29日潮岬沖で米潜水艦アーチャーフィッシュ号の魚雷4発で沈没した。

 その後、駆逐艦に救助された乗組員は呉沖に浮かぶ三ツ子島に約千名が幽閉された。収容者全員に信濃の事は口外するなと厳命された。元乗組員は「信濃はこの島で幻にされた」と語った。

 ブロガーが入社した昭和42年当時、我社は塩専用船1万DWTトン「建和丸」で三ツ子島から日本各地に工業塩を運んでいた。この船は昭和30年浦賀船渠で建造された。造船所は「吉田三傑」の山下亀三郎が設立した会社だった。建和丸は、かつて「トランパー」浜田喜佐雄が役員だったジャパンラインが運航していた。外航トランパー(不定期船)として世界の海で活躍していた三島型貨物船だったが、使命を終えて我が内航会社に用船された。今でも覚えているのは鉄鋼ビルにあった塩積替埠頭会社に浜田社長の命で吉田ミカンを届けた事だった。ボスの実家は吉田町白浦のミカン農家で、自慢のミカンを取引先によく贈呈していた。

 戦後、日本の工業塩は100%外国に依存していたので、外航各社はトランパーの荷物に世界各地の塩を積載していた。中でもメキシコ塩は復航のベースカーゴ―としてオペレーターの配船プランに乗っていた。どこの船社の船員も積み地ゲレロネグロ港のことはよく知っていた。

 昔、ある船のオーナーがバハカルフォルニア半島の沖を航行しているときに、白い結晶の塊のような海岸を見つけ、これは塩の塊ではないかと、ヒラメキ広大な土地に天日塩の製造を始めたそうだ。船主オペレーター自らが荷物を製造し運航するという画期的なものだった。(聞いた話)

 ブロガーは1994年この塩田を視察したことがある。塩田は東京23区の広さがあり太平洋の海水は3年かけて乾燥池を廻り塩が完成する。その塩を沖のセドロス島に艀で輸送し、呉の三ツ子島まで外航貨物船で輸送するというものである。

工業塩は化学産業界のコメと云われ、塩無くして日本経済は成り立たない。三ツ子島の塩集積場に年間100万トン以上のメキシコ塩が入る。

 かつてブロガーが島を訪れた際、旧海軍の施設があったことは知っていたが、今回の番組を見て三ツ子島に「信濃」の悲話があったとは驚きだった。久しぶりに昔の仕事を思い出しブログにアップした次第。

1994年視察の帰り、サンディエゴの海軍基地で空母コンステレーションを見た。幻の空母「信濃」とほぼ同じ大きさである。

 

 

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メキシコ塩田にて  サンディエゴの空母