戦国武将・土居清良という男 12


一条の恩に報ゆ

 

本書には、

  元親は一条の股肱、久札城主・佐竹信濃守を取り込まんとしたが、尊家に発覚し 起請文を書き人質を出した。その後人質に密計を授けて次第に旗下を籠絡して謀反を諮った。遂に天正元年11月大挙して尊家を欺き30余人を下田より船に投じて追い出した。

 元親は尊家の子家実に自分の娘を嫁がせ一条の後を継がした。後また伊予に追放し鴆毒にて殺した。尊家は豊後の大友に頼らんとし船を戸島(宇和島にある島)によせ流寓の身となつた。

清良悲しむこと一方ならず、土居蔵人をして様々の音物を贈り、若し伊予に留まる御志あれば大森に御出下さるべし、又豊後へ渡らるるに於ては用船供人を進ずべしと慰めた。尊家は感涙に咽んだ。

 清良は旱くより元親の野心を見抜き、一条を援けて元親を滅し度く思い、一条、西園寺の和を願ったる然し願いは中々に達せられず、一条迎々の出陣の隙に元親の奸計は着々功を奏し、和議成った時は既に遅かった。清良は一条の末路と南海の天地やがて再び乱れんことを思い天を仰いで嘆息した。とある。

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宇和島教育委員会出版の『新宇和島の自然と文化』によると、

 戸島城は、宇和島港の西方約22㎞の宇和海上に浮かぶ周囲約17㎞で、この鳥の中心地本浦港の北端に突出した標高35mの丘が戸島城と伝承されている。この城は、土佐の国司中村城主の一条兼定が約10年間(天正3年〜13年)居住していたことで有名である。

一条家五摂家の一つで公家中の名門であった、前太政大臣•関白•一条兼良は奈良の寺院にたより、その長子の元関白・教房を応仁2年家領である土佐国幡多莊の中村に下向させた。教房のあと、房家-房冬-房基-兼定と相続いて中村に土着し、土佐一条氏となり、所領の回復勢力の拡大につとめ、戦国領主としての地歩を同めた。兼定の盛時には、土佐幡多郡高岡郡を支配するとともに伊予宇和郡の一部をもその支配下に置いた。

それに対して一条氏の勢力と衝突したのが土佐中部に勃興して来た長宗我部元親である。元親は謀略により、また戦略により、しだいに兼定の支配地を侵略し、ついに天正2年、兼定土佐国外に追放し、兼定は岳父に当たる豊後の大友宗麟のもとに身を寄せることになった。土佐側の文献は兼定が暗君であったために身を亡ぼしたと記しているが、長宗我部側の史料によつたものですべてを事実とはなし難い。豊後に赴いた兼定天正3年、臼杵でキリシ夕ン宣教師の洗礼を受け、洗礼名をドン・パウロと称した。同年、失地回復を志した兼定南予の豪族、法華津氏・御莊氏らの支援により土佐に攻め入る。一時は幡多郡西部を制圧したかのように見えた兼定勢であったが、長宗我部の大軍との中村郊外渡川の戦いに敗れ、伊予国へ敗走した。その後、兼定は法華津氏の庇護により戸島で敗残の身を過すことになる。

不具病弱の身とはなったが、豊後から送られて来る国訳のキリスト教の書物によって慰められ、信仰に生きる余生を送り、天正13年7月1日、43歳で病死したという。彼の墓は戸島本浦・龍集寺の境内にあって、島の人々は「一条様」「宮様」と称して崇敬し、今なお兼定の墓前には香華が絶えず、毎年の命日には盛大な法要が行われている

と書かれている。

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一条兼定の墓