戦国武将・土居清良という男 8

清良起つ

 

 一条が清良に帰城を許したことは虎を野に放つが如きであった。

西園寺の恩は重い、しかし西園寺やその旗下の諸城主は大友に属してなすすべがない。土佐は長宗我部元親がやがて一条を滅ぼさん。今のうちに人質の松女を取り返さなければならない。

永禄7年7月6日の夜、忍びの者をして盗み出した。三間の領民は大いに喜び、急いで領米を納め百姓軍500余人が13日の夜、中野大森城を襲い、深田一之森城を攻めた。

清良起つ!の報に、今城肥前、家藤監物奮起して大森城の後詰に加わった。土佐河原淵の渡辺教忠は西園寺の人質全部を出して和を請うた。これを聞いた法華津範延は大いに喜び、大友が毛利、島津との戦で出陣中を幸いに西園寺実充にも告げずに兵船を出して豊後に渡り、西園寺の人質を一人残らず奪い取って帰国した。

 清良の帰城で宇和郡は大友、一条の掌中を脱し再び西園寺の旗を立てることが出来た。時に永禄7年11月であった。実充は喜びに堪えず、石城陥落の不誠を謝して娘(公広の妹)を清良に嫁したがこの夫人は早世した。

 

本書によると、

 これより大森城を法戦場として清良二十余年間の聖戦は始められる。庸主を奉じて民を護り、寡兵を以て大軍を引受け、功を嫉まれて讒に会い、主に疑われて献策は用いられず。諸将清良を推して旗頭にせんとするを退け、天下遂に秀吉に帰しては、西園寺に殉じて下城し、仕を再びせざる清良の惨儋たる苦節。嗚呼復た誰か涙なきを得よう。

 

私(作者)は、幽冥に通じたと言われる十三仏の胸板を掛け、池月にも優ると称せられる名馬蓮池黒に跨り、楓の定紋うった麗らかなる幡を翻して、宇和の山野を颯爽と疾駆し、智謀神の如く、勇武鬼神の如く、如何なる大敵と雖も向かいては破らざること無き、清良及びその一党の戦いの状を詳しく述べたい。然しそれはあまりに浩繁に渡る。その戦いの跡を年代順に略記するにとどめるから想像して頂きたい。

 永禄七年十二月、一條勢三百騎来襲。永禄八年正月、一條勢五百騎佐竹信濃守を将とし、東小路法行を別軍として来襲。

 永禄八年二月大友軍一條と呼応して来襲。

 永禄八年三月大友の将高橋紹雲一万余騎にて来襲。清良之を光満の峡谷に迎え撃ち、大浦の浜に退くを夜討ちをかけて散々に撃破す。

 永禄八年四月大友軍来襲、五月一条尊家自ら三千余騎を提げて来襲。

永禄八年八月一条勢来襲 永禄八年十月大友軍来襲。

永禄九年三月一条、大友呼応して来襲。

永禄九年四月尊家自ら大軍を催して来る。清良三百餘人を六手に分けて枚討ちをかけて法夏雪の火を持って夜討ちをかけて撃破す。

 清良また土居主水、観音寺佐渡重臣を失う。世にこれを出目川の合戦と言う。時に清良二十一歳。

とある。