2018-09-01から1ヶ月間の記事一覧

吉田三傑「村井保固傳」を読む 44

理想的散財 古來富を作つた人は枚挙に遑ないが、その富を上手に散じた例は多く聞かない。 東洋には錢神傳や貨殖傅の如き富に就いて語つたものは多少あるが、出來た富を着用し、これを巧妙に散ずる美徳を説いたものは、殆んど絶無と云つても善い。詰り蓄財は…

ふくしまつり

朝早く、近くの福祉センターへゆく 著書「トランパー」の売り込み! 市長が挨拶、オープニングセレモニーは和太鼓の演奏 郷里吉田町の豪雨被害をパネルで説明 田舎は復興のスローガンを創り頑張っている 仲間内で何とか5冊売れた、一部は田舎に寄附する 合間…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 43

海外投資の二三朝鮮とつ國にうつしてや見ん櫻木の かはらでほこる花のいろかをこれが村井の海外主義である。同じ南予出身の佐藤政次郎の朝鮮における農業経営を後援して、投下した資本は次第に増加して、最後に90万円と云う巨額に達した。殊に面白いのは是だ…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 42

村井とシーボルト 村井は知人から掲額用に書を頼まれると大抵断って書かなかった。その理由は、「標語など役に立たない。支那や朝鮮に行くと実にうまい掲額が至る所に見られる。若し標語通りに行ったら支那、朝鮮は世界の強国になっているはずだ。然るに事実…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 41

説教行脚昭和6年の村井は本間俊平師夫妻と郷里吉田に歸り、森岡天涯を柬道主人として南豫地方に3週間53日間と云ふ説教の猛行脚に出掛けた。 何がさて功成り名遂げて、身も輕く心は解放されて空飛ぶ鳥の如く自由である。 郷里の父老と竹馬の友は昔の三治(村…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 40

洗禮 大正6年2月3日彼は「鐵窓23年」で有名な牧師好地由太郎から洗礼を受けクリスチャンとして登録された。 彼にとって明治12年9月第1回の渡米までの26年間は一生の準備期間である。次に明治40年第53回誕辰までの27年間は活動時代である。 更に是より昭和11…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 39

宗教発心相場を除いて、村井の性行はあらゆる面で森村翁の再版、縮図であることは、模倣と云うよりも寧ろ生き写しの感があった。 青壮年時代には実業一点張りで邁進、次いで晩年信仰の道に入り宗教に精進し古聖者の足跡を辿った。 先ず、本家たる森村翁の宗…

やっと涼しくなった

今年は何と云う夏だったのか 豪雨、猛暑、台風、地震と天災続き ** 久々のブログ更新だあ 花の丘公園までウオーキング、というかダラダラ歩く Movieをyou tubeにアップ さあ、今夜のG軍はどうか?負けると最下位転落もあるぞ一句 軽快な足は何処やら…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 38

相場(3) 翌1930年6月8日村井は紐育から、日本の伊勢本ー觔に左の手紙を寄せて居る。 (前略)さて小生も前年來当方の經濟界見習の爲め餘計の事をして、可也手傷をいたし候。前年も森村翁御存命の節、可也の痛手を受けたるにこりもせず、自分は可也この道…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 37

相場(2) 紐育の三階で小錢を賭けた輸臝(勝ち負け)に味を覚えてから、そろそろ本物の相場に手を出して見るが、興味は又格別である。道樂も次第に嵩じて、何時の間にか深人りしたことに気が附いた時は既に遅い。今度は松山の公債売り飛ばし位で追い付かぬ…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 36

相場(1) 以上は病にしても疵にしても致命傷と云ふほどではない。然るに最後の相場癖に至つては病膏盲に入ると云ふか、命取りと云ふか、ー度ならすニ度ならす、大痛手を受けて沒落の瀬戸際に瀕したことあり。自分にも涙を以て改悛を誓ひ、極力抑制したやう…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 35

道楽次が道樂である。松山遊學中道後遊びが、病みつきで養母の虎の子の公債証書に羽根が生へて、飛んでしまつた失策は大きかつた。本人はこれで免疫されたから、其後は極端な道樂に堕しなかつたと云つてゐるものの、疵は何處までも疵である。慶應在學中は近…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 34

組織変更と森村男の英断 森村翁の長逝で創業の巨星地に落ちたる観あり、大倉老77歳を重ねて現役の重寄に堪えない。残るは孤影悄然たる村井一人である。大正9年10月森村組の組織を変更することになった。31日男爵宅にて故翁の追悼会を催し、続いて男爵より森…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 33

緊縮整理 村井は大正バブルに緊縮整理の大ナタを振るった。 大正4年12,13号窯と増やし、更に増設で6年には28号窯を造るに至った。 東京に森村商事会社が設立され、八方に手を拡げ鉄、洋紙、マッチなど大量の商品を扱い相当の利益を揚げた。三井、三菱に追い…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 32

荒馬使ひ保固傳には、村井の事を天成の仲裁役として「油差」と書いているが、親身の間でも、時に油が切れると円満に行かぬことがある。90回の太平洋横断の旅は米国、日本双方の油差の為である。村井は紐育店に関西貿易会社の手塚國一を抜擢した。米国人仲間…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 31

天成の調和剤 色眼鏡云々で森村と大倉の間の食い違いを、村井の執り成しで治めたが、明治40年又も両雄の両立し難い形勢となった。村井はよくよく慎重に考慮されたいと切なる希望を言い残して帰米の途に上がった。果たして、翌41年森村から至急帰朝を促す電報…

吉田三傑「村井保固傳」を読む 30

時勢に先鞭 世界における陶磁器界について記されている。つまり米国は労賃が高いので高級磁器の製造は振るはない。英国は専ら高級陶器の製造に重きを置いている。独り高級磁器を以って世界に覇を争うものは佛独両国である。米国に於いて富豪の家庭が佛のハビ…