戦国武将・土居清良という男 17(完)

 8月6日第1回目のブログアップから始まった「土居清良」伝は漸く終わった。

『清良記』は、土居清良没(寛永6年【1629】)の約20年後、土居一族の末裔で三島神社元神官・土居水也という人が、長い歳月をかけ全30巻を完成させたと伝えられている。

 本書「土居清良」の著者・竹葉秀雄氏は、明治35年三間郷、清良公居城の大森城の麓で生まれた。竹葉氏は昭和10年、34歳の時、『清良記』全巻を通読した感動の余勢を駆って、宇和郡領主・西園寺氏旗下14将第一の知将・土居清良公にフォーカスし本書を書き上げたという。

 

竹葉秀雄氏の事が昭和36年発行『南伊豫の山河と人々』(高橋紅六著)に紹介されている。

 

三間町のページに「勤務評定の草分け・筋金入りの県教育委長 竹葉秀雄氏」という見出しで記されている。

――竹葉氏は愛媛師範を出て暫く教壇に立ったが、やがて安岡正篤の主宰する金鶏学院に入学し精神的鍛練を受け郷里に帰って三間村塾を開らいた。時に昭和十三年三月第二次欧洲大戦の前ぶれともいうべき新体制運動が燎原の火の如く燃えひろがろうとしていた折柄でもあった。天皇帰一の強力国家を作り新しい日本への脱皮に優れた指導者は求めていた。鼠族的政治の壊滅、利潤本位から公益本位への経済機構の転移、これら総力戦のスローガンは全体国家機構の哲則とされ国家社会主義の真随でもあった。

――それを逸早く把握して新日本の注くべき大道を説く青年塾主は、古い伝統と姑息の殻に閉じこもっていた当時としては驚異に値する存在であった。火の如き憂国の熱情と進歩的な思想は忽ち地方の青年を魅了しその教えを乞う人達は全国各地から集まって来た。塾主竹葉氏は八紘寮長、王道学会理事と月の半ばを東京に送り時には朝鮮警察講習所、同京畿道々場講師、総督府指導者伝習所講師などに招聘されしばしば渡鮮した。かくするうち第二次大戦は次第に拡大し遂に日本も參戦して戦況ようやく苛烈となった昭和十九年推されて三間村長に就任、ついで北宇和翼壮団長にかつぎ出されたがこのため終戦と同時に追放となった。

――その後は北宇和酪農の指導に情熱を燃やし、北酪今日の基礎を作り上げた。追放解除と同時に金鶏学院当時の学友であった久松定武知事の推薦で県教育委員長に就任し前述の如く全一に魁けて教職員の勤務評定を実施というより勤評の草分として思想的混迷の破砕に乗り出した訳だ。勿論物凄い抵抗を受けた。日教組が総評の指導下に最も尖鋭化し、赤鉢巻で騒ぎ回った時代である。特に愛媛県の教組は甚しく左傾し偏向教育で有名だった時だ。社会党議員は国会へ持込んで猛然と反撃を加え一躍愛媛県の名を高めたものである。しかし竹葉委員長は眉毛一つ動かさず、執拗な抵抗をハネ返し一歩も譲らず、敢然と信ずるところを貫ぬき切った訳だ。

――女も好き、酒も好き。酔えば童心に帰ってまことに奔放な快男子振りを、発揮する委員長さだ。富農の家に生れて毛並も良くコセついたところは微尽もない根ッからの好人物だが、その信ずるところの強さは勤評問題における毅然たる態度、百千万の敵も敢て辞せぬ不屈の精神はまさに筋金入りの逞しさだ。松下村塾を開らいて維新革命の捨石となった吉田松蔭の激しい情熱を、そっくり享け継いだような竹葉氏の憂国精神はまた得がたいものであろう。

 

 ブロガーは吉田町史談会のメンバーから本書『土居清良』=戦国 伊予の聖雄=を贈呈され拝読したが、隣の町、三間町にこのような偉人(竹葉秀雄氏)が居られたという事を初めて知った。郷土の英雄(土居清良公)を後世に伝えるという意志で、平成29年本書を再編刊行された関係者の発行者、編集者に敬服する。

 本書の編集者は、後編に「竹葉秀雄先生の人物像」と題し、評伝を書かれているが、その中で(名横綱双葉山との出会い)のエピソードを紹介している。全文を引用して“戦国武将・土居清良という男”を完結とする。

 

 横綱双葉山との出会い

 昭和10年安岡正篤先生が三間村塾に来訪され、青少年に「日本のあるべき姿」を説き明かされた。その時作られた漢詩が、同年発刊された『土居清良』の冒頭の詩「遊於竹葉醒庵三間村塾」である。また、この時の同行者に、双葉山の後援会長であった中谷清一氏がおられ、彼の仲介により、昭和11年の大相撲夏場所において竹葉先生は双葉山に初めて出会い、以降刎頸の交わりが続く。

 昭和13年11月、「人類のために苦難を求め、平和を致すことこそ日本の道である」との竹葉先生の言葉に感動された双葉山は、69連勝の記録更新中でありながら一行を引き連れ三間村塾を訪ねた。

 翌14年春場所4日目に双葉山安芸ノ海に敗れ連勝は69で止まったが、その時双葉山から竹葉先生宛てに「ワレイマダモッケイタリエズ」の電報が届く。双葉山は負けた直後、土俵に大きく一礼をし、全く表情を変えず花道を引き下がったが、心の中は「木鶏」のようには平穏ではなかったと、電文は語っている。竹葉先生は、双葉山が真情を吐露するまでに厚く信頼されていたのである。

 そして昭和15年双葉山は再び村塾に来訪、母親せい様が61歳の記念に寄贈した三間小学校の土俵で本場所と全く同様な土俵入りを披露したのである。近郷の人々の喜びようは言うまでもない。併せて、瓊矛(ぬのほこ)道場八洲殿と真弓道場楓館が完成。そのお祝いとして双葉山から大太鼓が寄贈された。竹葉先生は「雷の太鼓」と名付け、厳粛な道場の雰囲気は更に引き締まった。

 尚この太鼓は、戦災により大太鼓を失っていた宇和島和霊神社に一時期貸し出されており、その奇縁が、昭和39年に発生したご自宅の火災の類焼を免れ、今なお三間の三島神社において、かつて塾生達を鼓舞したであろう莊厳な音色を響かせて呉れている。

 

            おわり