海運集約でジャパンラインが発足した。田中も竹中も自分が育てた会社の名が無くなるが、大所高所から国家の為に合併したので、名に拘らず、ハイカラな社名にした。
筆者が入社した(昭和42年)ジャパン近海は、以前、元日東商船が入っていた岸本ビルの3階に事務所があった。筆者は毎朝、ジャパンラインが入っていた国際ビルまでテレックスを取りに行かされた。浜田社長は社用車で三鷹市の自宅から出勤した。いつも大きな黒革の鞄を持って社長室に入った。ペイペイの筆者は、威厳のある社長には近寄りがたかった。しかし、代官山寮の宴会で社長と総務部長が、皆に珍芸を披露した時のギャップは忘れがたかった。