土居清良の故郷「三間町」を訪ねる(1)
恩師・池本先生
9月28日、法事で郷里吉田町に帰省する。
30日は先ず、宇和島市役所に行き「吉田三傑2019」売上金一部と白井市桜台の高齢者クラブ有志からの義援金を岡原文彰市長に手渡した。翌日の愛媛新聞にはこの模様が、西日本豪雨情報の欄に載っていた。
この度の道案内は、三間町金銅に住む吉田中学同級生の安岡委和子さん、車の運転も達者である。旦那さんは市議の安岡義一さん。市役所を出て三間に向かった。
戸雁にお住まいの恩師・池本覚先生を訪ねた。2回目の訪問になるが、89歳の先生はかくしゃくとされており満面の笑みでお迎え頂いた。
先生の部屋に書の額縁が飾ってあり、「千字文」という古文書を書写されたもので1,000字全ての文字が異なっているとのこと、筆は、先生の性格が表れ楷書で綺麗に書かれている。
池本先生は吉田小学校では音楽を教えられていた。しかし先生は郷土史家で「新宇和島の自然と文化」の編集委員をされ題字も書かれている。先生は、三間町誌、津島町誌を現職中に著作されているが、出身は三島村(広見町)で他の町の歴史関係を依頼されるという事は、如何に教育面で信頼されていたことが窺える。
これから「旧庄屋毛利家」に向かうと告げると、先生は平成14年に書かれた「毛利家の音楽とのかかわり」という冊子を下さった。
それには毛利元彦先生の愛唱歌「浜辺の歌」の楽譜と歌詞が添えられていた。平成11年元彦先生の一周忌で偲ぶ会の会員に歌詞を配り、「ゆうべ浜辺をもとおれば昔の人ぞ忍ばるる…」私はただひたすらに皆さんの歌唱に合せ、精魂込めてバイオリンを弾かせて頂いた、と記されている。
池本先生は平成13年元彦先生の奥様から「うちにあるオルガンが古いとのことですから、見てください」と電話があった。早速、毛利邸に伺い明治30年代の古いがっちりとして風格のある丁寧な造りのオルガンに驚いた。先生は細心の注意を払いリードを抜き出し口に当てて息を吸い込んでみるとブーンとやわらかい雅の音を発した。このオルガンは四ストップ付き六十一鍵のヤマハ楽器製だった。オルガンは浜松の修理工場に運ばれ、数か月後明治期の健全なヤマハオルガンとして里帰りした。
先生から、平成21年11月15日に宇和島市民歴史文化講座「そこどこや」の講演資料を頂いた。「旧庄屋毛利家と土居清良」をテーマに三間町のゆかりの地を訪れるもので、先生が講師となって親切丁寧な資料を基に語られたという。
その中で先生の書かれた「土居式部大輔清良公年譜」のあとがきには、(清良記を読み切ってみて思われることは、絶妙に冴える土居水也の筆勢が、戦塵に明け暮れた清良公主従一門の二十五年間を生き生きと描き切っていることである。(中略)清良公自身、智勇兼備の名将であるのは勿論の事、外では勇猛果敢に戦場で渡り合う勇士。内に在っては、勧農政策を献じた農学者松浦宗案。祐筆であったろう文学者土居水也など土居主従一門そのものが、智と勇、文と武とのかたまりであったことを如実に物語っている。また、そうあらしめたところに、清良公の偉大さがある。)と記されている。
また先生は清貧時代に、伊能忠敬が全国を測量し宇和島藩、吉田藩に来訪した時の旅行記を本にされたり、宇和島出身で「護法の神様」と云われた児島惟謙がお母さんに宛てた手紙に先生は感動し本を書いた。
これ等の事で先生は方々から講演の依頼があるという。特に安岡さんは、先生が子供たちにやさしく話される姿に感激している。
池本先生は「土居清良」を著作した竹葉秀雄氏にお会いしたことがあるそうで、津島町の学校に奉職されていた時に、竹葉氏と同級生だった校長に呼ばれて話をお聞きになったという。
先生は、もともと音楽の教師なのに何故か歴史文化を研究する文筆家になられた。教え子の中でも先生の話をすると皆がそれをおかしがるが、南予という郷土を愛する優しい先生のポリシーがそうさせるのではなかろうか。
津島町岩松出身の奥様は新婚時代の話しをされた。奥様は、城下町吉田の街がお気に入りで「横堀食堂」でうなぎを食べた事、大田書店の事、山口肉店で牛肉100グラムを宝物をみる思いで買った事、桜丁の洋品店で生地を買って洋服を作った事など懐かしく語られた。帰りがけ奥様から三間名物「やぶれまんぢう」を頂いた。
我々は、さようならとお別れを告げて車に乗ったが、いつまでも手を振るご夫妻の姿が印象的だった。池本先生は本当に三間町の宝である、いや日本の宝である。
池本覺先生の「千字文」(ブロガー撮影)
毛利家のオルガン(9月30日撮影)