がいな男 28 昭和恐慌

 昭和元年は一週間で終わったが、日本経済は大正9年の大反動から続く慢性的な不況から取付け騒ぎなど金融不安が続く中で、関東大震災が発生し、震災手形の絡んだ不良債権の存在が不安をあおった。鈴木商店台湾銀行からの融資が止まり関連会社は清算され、イギリス帰りの高畑誠一日商株式会社として事業を継続した。 

 昭和2年2月がいな男の親友・清家吉次郎が、横浜港から「これあ丸」に乗ってアメリカに向け出発した。亀三郎と村井保固が旅費を支援し、人望の厚い清家に千人近い友達から餞別が寄せられた。清家は、北米、南米、欧州の8か月に及ぶ旅行記を翌年『欧米独断』に著した。

 昭和に入り、がいな男は中国に目を向けていた。日本は日露戦争で「南満洲鉄道株式会社」の利権を得た。満鉄の本社は大連にあり、炭坑を始め重工業など事業は広範囲にわたっており、大連は日本の中国に対する政策上の拠点であった。大連港は、撫順炭坑の集積地で大量の石炭が海外に提供された。トランパーはそこに着眼し、不定期船や定期航路を開拓して行った。

 昭和4年10月24日、「暗黒の木曜日」ニューヨーク・ウオール街の株価が大暴落した。この暴落は、一か月間続き、世界恐慌に発展した。昭和恐慌の元となるこのパニックは、我が国の歴史を変える大きな分水嶺となった。

内航海運新聞 2022/8/22