がいな男 (36)軍需輸送(37)望郷の旅

 昭和12年7月、北京の西南部「盧溝橋」で日本軍と中国革命軍が衝突した。支那事変といわれる日中戦争の発端だった。がいな男は太平汽船、国洋汽船、浪速海運、中京海運、東洋汽船など関連会社を設立した。また専用船部門にも手を広げ、鋼材専用の三星丸を建造した。さらに浦賀船渠で竣工した山里丸、山彦丸を上海・横浜~ニューヨーク・南米航路に投入した。自社船五隻をドル箱航路に就航させて成果を揚げた。

 がいな男はこの頃になると、故郷「吉田町」に年2、3回は帰省した。特に昭和14年の秋祭りにはファミリーで牛鬼やおねりを見物している。

 がいな男は、昭和13年藤原純友の顕彰碑を建て、その趣旨を語っている。「昭和13年11月、少しの閑を得て帰郷し、自ら籐原純友の地を尋ねその遺跡に立ち、千有余年の昔に思いを馳せた。賊という汚名を返上できなかった無念さはいうまでもないが、小舟の軍団を率いての勢い盛んなる行動、困難を排して物事を押しとおすその力は、海国男子としてすぐれた男であったとの思いが次第に湧き起こり、ここに先人の偉業を後世に伝えるべくこの地に碑を建立した」

 山下亀三郎も一匹狼で海運業に飛び込み「社外船」という立場で、国家が助成する「社船」の日本郵船、大阪商船の向こうを張って(トランパーの雄)と呼ばれるほどの会社に大成長させた。まさに海国男子、がいな男である。

内航海運新聞 2022/10/17

内航海運新聞 2022/10/24