がいな男 22 面白い部下

 がいな男が成功したのは、優秀な社員を採用したことである。田中正之輔は京都帝大を卒業、大正6年4月に入社した時、手当35円の辞令を貰った。だが手当と給与は違う、7月には給与は65円と決まった。帝大卒30円のころで破格の扱いだった。辻は大正7年、東京高等商業学校(一橋大学前身)を卒業した。そのころの大卒生は大企業から勧誘(粗餐呈上)を受けていた。金沢出身の先輩納賀雅友は、がいな男の厳命で辻に会ってしきりに入社を勧めた。辻は最初は嫌がっていたが、直接社長に会うといって早朝、芝高輪の山下邸を伺った。亀三郎の一見一顔主義を逆手にとって、自分が経営者の品定めをした。「やあ、よく来てくれた。君がこんな早朝に来てくれたことが実にうれしい。ぜひうちの会社にきてもらいたい」という一枚も二枚も上手のがいな男の言葉に、「それじゃあ、ひとつ、お願いします」と辻は頭を下げてしまった。

 しかしこの二人は後年(昭和5年)がいな男に逆らって大同海運を創設した。辻は専務まで務めたが、時の村田省蔵逓信大臣に乞われ逓信省嘱託勅任官待遇という役人に転身した。その後、神戸発動機の社長、佐世保船舶工業の専務を務めたが、昭和29年、古巣、山下汽船の再建をまかされ、社長に就任するや辣腕を発揮、業容の黒字化を実現し、昭和35年、山下三郎に社長職を継承している。
 田中は大同海運の社長として昭和の海運界で活躍した。昭和39年の海運再編で日東商船との合併話をまとめ「ジャパンライン」を発足させた。その後ジャパンラインは山下新日本汽船と合併し「ナビックスライン」として旧山下汽船と融合した。

内航海運新聞 2022/7/4