7月1日は安藤神社の夏越祭です。

 かたい話ですが、安藤神社の主祭神は、安藤義太夫藤原継明公(あんどうぎだゆうふじわらつぐあき)です。神社由緒は、嘉永2年2月創祀、明治42年村社に列格。
 安藤公は寛政5年2月宇和島八幡川原に参集した領民を説得したが志ならず、ついに遺書を認め全責任を一身に負って切腹しその一揆を治めた。神社鎮座地は宇和島市吉田町東小路です。

 その境内に「吉田三傑」のひとり、村井保固翁の石碑があります。

2015.5.6ブロガー撮影

 村井保固伝に残された言葉をその儘に記します。
「私の觶土に於ても有爲の人物は多く故觶を離れて居るが、故觶の苗床はよく注意して水を注ぎ肥料を與へて、立派に仕立て、行かねばならない。此の意味で私は吉田に幼稚園を設けたのである。此精神を以て苗床をもり立てて行けば將來どんな偉いものが出來るか、測り知る可らざることである。吉田の地には我々の永く龜鑑とすべき偉人あり、それは安藤様である。此の方はあの一揆の鎭撫には、必ず行かねばならない事情でなかつたにも拘らず、進んで八幡河原へ向かい、責を一身に追うて切腹された。之によって一揆はその高潔なる犠牲的精神に感激して理屈なしに鎭まつた。我等は此祟高な大精神を発揮して行かねばならない。
 觶土を愛する心は之を拡大すれば愛国心である。私は米國に行つて愈々愛国心が強くなつた気がする。私が八十歳の時におのづと心に浮かんだ歌に、
  神に問ひ人に学びて今日も又昨日にまさる人となりたし
私は病床にある今も日々己を新にすることを樂しみにして居る。

★★★
ブロガー幼きころの一ページです。
 5、6歳のころ安藤様の夏祭りは、すごい人が出ていました。境内で御神楽を見ていると、人いきれで失神しました。(この子は宮政のシゲルだあ)と言って、大人数名に担がれ店に運び込まれました。店はかき氷、ミルクセーキを食べる人で一杯、大繁盛でした。
 今でも記憶に残るのは、家の前が横堀川で盆踊りの舞台が水面に映り、桟敷が土手の下に造られていました。大勢の人が踊りを楽しみ、三輪橋の仕掛け花火をうっとり見ていました。
 ホタの晩、こども牛鬼、鹿の子の哀愁を帯びた唄声などなど
 嗚呼、昭和も遠くなりにけり…

  安藤さん遠くでホタの晩かいな