がいな男  19 大戦バブル崩壊

 大正七年(一九一八)アメリカ参戦とロシア革命で、各国の厭戦気運が高まり十一月には停戦協定が結ばれた。戦死者九百万人、民間人七百万人という大きな犠牲者を出し四年半という長い歳月の戦いはやっと幕を閉じることになった。
 亀三郎は、不況に備えて航路開拓に精を出した。前年のシンガポールにつづいて、台湾航路にも手を広げた。山下は、初めての台湾糖入札なので、全く運賃レベルが分からない。そこで動いたのが、東京支店駐在の玉井周吉取締役と内藤正太郎、納賀雅友で、大阪商船の経験者に接待攻勢をかけ各社の運賃率を聞き出した。微差で落札した亀三郎は、忸怩たるものがあったのか、商船の堀啓次郎社長、村田省蔵・遠洋課長ら十数名を大阪北浜の花外楼に招待した。南地から富田屋の女将、北街は松糸の女将を酌人として呼び、それぞれ南北の売れっ妓芸者十数人を引き連れてきた。がいな男は「まあまあ、堀社長一杯いきましょう。今日は商売抜きでパアッとやりましょうや」と盛大な宴会が始まり、黒御前はカッポレを踊りだした。
 亀三郎は、大手の船会社相手に最上級のおもてなしをしたが、(大阪商船のような大会社には山下汽船は屁みたいなものだ。台湾糖ぐらいの荷物は何とも思っていない)とひとり合点をしていたが、一方で商船の方は、山下に定期船の運航がまともに出来るわけがないと高をくくっていた。
 山下汽船は、台湾糖の荷物は取ったが、日本~台湾の定期運航は初めてのことである。定期船のノウハウがゼロで、まして台湾の事情を知るものがいない。採算などは度外視で落札したが、幹部たちは、これはえらい仕事を請け負ったものだと右往左往した。がいな男は、(商船から何人か引き抜け!)と部下に指示をして、ライバルの大阪商船から二名を転職させた。それらを使って貨物課を新設し、十月、台湾支店を開設した。船会社は荷主との運送契約で年間数量の輸送責任がある。台湾糖は、年間四百万ピクルの契約で今の船腹では足りない。田中正之輔らは輸送責任を果たすため定期用船を増やした。遅くまで仕事をして会社に泊まり、翌朝は早くから仕事に取り掛かった。

内航海運新聞 2022/6/13