この人もがいな男 母校の先輩「道上伯」

 吉田中学(現吉田高校)の第6期生に道上伯(みちがみはく)という1964年東京オリンピック金メダリストのアントン・ヘーシンクを育てた柔道家がいたことが分かった。今年7月、出生地の八幡浜市で道上雄峰氏(ご子息)が「道上伯生誕110年」の記念講演を行った。その模様がYOU TUBEにアップされている。

 (https://youtu.be/mfPJvgbqQZo)

youtu.be

 早速、平成10年発行の「吉田高校同窓会名簿」を開いた。吉田高校は大正6年創立の山下実科女学校と大正12年創立の吉田中学校が、昭和25年に合併した学校である。会員名簿は山下女学校創立80周年の記念事業で発刊された。当時の同窓会長は吉田山下家11代当主の山下源一郎氏である。

 道上伯の名は、吉田中学昭和8年3月卒業生の中にあった。住所はBOEDEAUX FRANCEとある。道上は2002年(平成14年)89歳で亡くなっているので名簿発行の時は85歳、同級生57人の内40名は物故となっていた。道上は1912 年八幡浜市向灘に生まれ、八幡浜商業を中退、吉田中学へ入学した。柔道部顧問の赤松徳明先生は、柔道が強いと評判の道上をスカウトした。赤松先生は昭和2年から8年まで同校に勤務している。

 道上伯のことはネットで公開されているが、印象的なことを羅列すると、
・子供の頃、八幡浜のみかん山を駆け足で登り降りし足を鍛えた。
・スポーツ万能で8歳で相撲のチャンピオン、12才柔道初段、17歳で3段を取得。当時、 個人戦はなかったが、全ての試合に勝利し、敗戦は皆無という。
・フランスに呼ばれヨーロッパ、アフリカで柔道を広める。オランダのヘーシンクは無差別級で日本最強の神永選手を倒した。道上は自分の育てたヘーシンクが世界一強い事を確信し、試合直前までヘーシンクを励まし続けたそうだ。
・半生を海外に置き、武道としての柔道を守り通した。「心技体」というフレーズを最初に使ったのは道上である。

 

 

さて、ブログ本『吉田三傑2019』に吉田中学4期生の芝重保氏の「隙ゆく駒」という題の創立60周年寄稿文を紹介している。
 ……当時の先生方には、ひとかどの人物が多く、それぞれに忘れがたい思い出が残っている。飛んだり、跳ねたり、転んだり、生傷をつくりながら体を鍛えた運動場の土くれには、少年時代の汗や垢が染みついている。運動会には、乱暴な騎馬戦や棒倒し合戦があって、うっかりしていると殴られたり、掻きむしられたりして散々な目に会った。また、軍事教練の成果を示すため、軍隊式にゲートルばき、銃剣装備で中隊の分列行進が行われた。(中略)昨年の初夏、旧友の竹田、児玉、宮川の3君とはからって、吉中卒第1期から6期までの最古参組の有志の集いを開催した。“せせらぎ会”と名付けたが、その由来はもちろん、われわれの中学生活の伴侶となって、絶えず慰め、励まし、少年の夢を育んでくれた国安川のせせらぎの音に根ざしている。
当夜、東京、池袋の料亭に集った顔触れは、第1期の児玉義忠氏をはじめ、江湖山恒明(2)、兵頭俊彦(2)、竹田岩雄(3)、児玉武(3)、宮川忠雄(4)、鈴木博(4)、松川正一(4)、新宅慎造(5)、三好三良(6)ら11名である。(後略)
 6期生は三好三良氏が出席しているが、欧州などで柔道の指導に当たっていたであろう道上伯の名は記載されていない。

 いずれにしても、吉田三傑らが創った吉田中学のわが先輩に、ヘーシンクを育てた男「道上伯」がいたことは間違いない。吉田高校は今年創立105年だが、長い歴史の中で(がいな男)がいっぱい輩出された。