がいな男  24 吉田三傑

 がいな男の乳兄弟「清家吉次郎」は慶応2年、吉田藩河内村に生まれた。二人は仲良く圓通寺の小学校に通った。吉次郎は愛媛師範学校(現愛媛大学)を出て、教員、校長を歴任し南宇和郡の視学(教育行政官)を務めた。その後、政治家に転身し県会議員、国会議員と活躍しながら吉田町長も兼務した。大正10年のころ、吉田町長として吉田中学、吉田病院の設立に尽力した。吉田町出身の富豪「村井保固」「山下亀三郎」から大口の寄付を募った。吉田三傑と呼ばれる清家、村井、山下は大正から昭和初期にかけ、郷里の公共事業に並々ならぬ貢献をした。
 この三傑は文芸にもたけ、清家は松山出身の正岡子規から俳句を教わり、がいな男は「脱仙」という俳号をもっている。吉田高校の「吉田三傑資料室」には、大正12年吉田中学の開校式だろうか、珍らしく三傑が映っている写真がある。その晩の宴会は再会した三人が大いに酒を飲んで盛り上がった。がいな男と村井は即興で都都逸を作り歌った。♪明日はお立ちかお名残り惜しや~。村井が書いたといわれる掛け軸が遺っている。がいな男は50歳のころから78歳で亡くなるまでの約30年間、地元に毎年1億円(今の価値)ほどの莫大な寄付をした。

大正12年 村井保固 筆

内航海運新聞 2022/7/18