がいな男  (13)  新造船発注

 山下亀三郎は自伝「沈みつ浮きつ」で(渋澤子爵を偲ぶ)と題し、思い出を語っている。がいな男は、渋澤栄一92歳の最期まで、公私ともに大なる指導を受けたという。
 その中で一番感激の念に堪えず頭に残っているのは、大正4年に郷土松山に足を運んでもらったことである。
 がいな男は、東京から子爵にお供して神戸の西常盤で一泊、廻遊船「紅葉丸」に乗って松山に向かった。子爵は道後の「ふなや」に泊まったが、松山市民は財界の大立者を、沸くが如くの大歓迎をした。
 翌日は松山城天守閣で官民諸氏の歓迎会が催された。この席上で、農工銀行の某頭取が、渋澤先生のお徳を、ある高貴のお方に比べて述べたところが……
 それを静かに聞いていた渋澤先生は、ただちに立って「ただ今のお話である高貴なお方に関する所だけは、恐懼に堪えないから取り消されたい」と延べられ、このお言葉で満座は粛然としたと記されている。

 がいな男は、金子直吉の見立てに賭けて、初めて新造船を発注した。船名は郷里の吉田町に因んで「吉田丸」と命名されたが、竣工後すぐにイタリア政府に売られていった。
 その後、第一吉田丸、第二、第三と建造するが、太平洋戦争で兵隊と共に海の藻屑となった。

内航海運新聞 2022/4/25