がいな男  30 満州事変勃発

 がいな男は、田中らの離反で社員が手薄になったので、優秀な大学生を募集した。
東京帝大から三人、京都帝大、早稲田大、大阪商大から一人ずつ採用し、入社したその日からどんどん仕事をさせた。新入社員は連日残業続きで、夜食にうどんばかり食べていた。

 その頃、がいな男は、次男の三郎が文学に熱中しているので手を焼いていた。
「小説家などとんでもない、太郎と一緒に船会社をやるのだ!」と慶応義塾大学の法学部に在学中の息子に、(卒業したらロンドンへ行け)と命じた。
 三郎は、二十歳のころ、小説を書いて同人雑誌に投稿していた。これが川端康成の目にとまり、文芸時評で激賞された。大作家から褒められた三郎は、文学にのめり込んだ。親父に(パリに行きたい)と駄々をこねた。亀三郎はパリなどとんでもないが、ロンドンだったら船の勉強にもなると息子を渡英させた。しかしロンドンでも渡欧中の作家・林芙美子をドライブに誘ったりして、ますます文学への夢が膨らんで行った。

 亀三郎夫妻は、帰国した三郎を、箱根の富士屋ホテルに連れて行った。久しぶりに三人で宮ノ下の街を散歩した。
「お前の小説家としての才能は認める。だが家業を継いでほしいのだ。川崎汽船に入って修行してくれ、他人の飯を食うのもいい経験だ」と亀三郎がいうと、妻かめは、
「三郎さん、父さんはお前の将来のことを思って、そういって呉れているんだよ」と優しくいった。三郎は、両親の困った顔をみて観念したらしく、
「それほどいわれるのなら、会社に入りましょう」と答えた。

内航海運新聞 2022/9/5