がいな男  23   戦後の不況

 大正10年になると、欧州大戦後の不況風が厳しくなった。株価の大暴落は、全国の各銀行で取付け騒ぎを起こし金融機関は大混乱した。バブル崩壊は多くの成金たちをのみ込み、横浜豪商の茂木商店、安部商店、増田商店が倒産し、鉱山王の久原房之助は事業を投げだした。
 がいな男は、世界では1,500万トンの船が係船を余儀なくされている時に、逆転の発想で船を増やし航路を開拓した。つまり成金らの撤退で商売の穴をうめる仕事が回ってくると見込んだのである。東京~大阪の定期航路を開設し、台湾および朝鮮航路の往復航路をこれに接続した。6千トンの鶴島丸を米材バーシング方式の運航第一船として配船した。更に青島航路と小樽航路を開設した。社外船の山下汽船が定期航路に進出することが出来たのは、欧州大戦でオーシャンゴーイング(遠洋航路)に就航しビジネスノウハウや、世界の港湾事情を習得したからであった。
 大正10年11月のワシントン軍縮会議が開かれ、戦勝国アメリカ、イギリスは強国となった日本の海軍力の拡大を恐れ、主要戦艦の保有率を米・英の5に対し日本は3と決定した。亀三郎が経営する浦賀船渠も艦船の建造が多く苦境に立たされたが、山下汽船の第5期決算は、なんとか利益金23万円を揚げた。

内航海運新聞 2022/7/11