がいな男 (33) 竹馬の友死す

 がいな男の親友、清家吉次郎の葬儀は3月2日吉田中学校で行われた。霊壇の中央にはその位牌(清涼院淡然明快居士)を安置し、伊達侯爵、鈴木政友会総裁、山下亀三郎氏から贈られた花輪の類がその左右を埋め尽した。参列者はー戸愛媛縣知事、山下亀三郎氏など4千人を超えた。伊達宗彰侯はじめ各方面から送られた弔電は、1千餘通の多きに達した。3時半葬儀は全く終了した。遺骨は直に清家家の菩提寺たる喜佐方村の安樂寺の墓地に埋葬された。
 吉次郎の死は「官報」で二度にわたって知らされた。帝国議会衆議院議員死去
愛媛縣第三區選出議員清家吉次郎ハ今月二十三日死去セリ。弔詞 議員清家吉次郎死去ニ付昨一日本院ハ左ノ弔詞ヲ贈レリ。衆議院ハ議員従六位勲四等清家吉次郎君ノ長逝ヲ哀悼シ恭シク弔詞ヲ呈ス。
 吉次郎は死の間際に側近にこう語っている。「町民諸君に遺言を書きかけて居るが、吉田町民の誇とするところのものは、中学校や、女学校や、幼稚園など他町村にない敎育機関を備へて居るといふ事でもなく、病院を経營して居るといふ事でもなく、築港が出來たといふ事でもなく、又近く鐵道が開通するといふ事でもなく、實に旣往六年間1人の怠納者も出さなかつたといふ点に在るのである。即ち納税の義務を完全に履行したといふ事が最も誇とすべき点である」
 がいな男は、後年親友の死を惜しんで「昭和二年には欧米を巡遊し(欧米独断)の快著を印行した。淸家の識見を最も雄弁に語るものである。唯、今でも遺憾に思ふ事は(何故あの時、豪洲や印度、アフリカ等を巡らせなかったか)と云ふ事である。夫等の地方を巡遊させて、あの(欧米独断)を書かせたならば、更に素晴らしいものを書いたに相違ないと思ふのである」と無逸伝に寄稿している。
 吉次郎は教育者であり、政治家だった。また文学者でもあり、能狂言、短歌、俳句も
嗜む風流人でもあった。酒を愛し歯に衣着せぬ弁舌は議会を賑わした。近代ニッポンを肩で風切って颯爽とかけ抜けた。

内航海運新聞 2022/9/26