がいな男  (16)  山下女学校

——親友の清家吉次郎は、明治三十九年、西宇和郡視学のころ、八幡浜商業学校の創設に尽力し、町立八幡浜女学校を創立した。吉田にも女学校を創りたいと丁度アメリカから帰っていた村井保固に相談したが、(いずれ郷里のために何とかするが、少し先にしてくれ)といわれ実現しなかった。
 それから十年たって吉田町有志の間から女学校設立の声が上がり、みんなは、船成金の亀三郎に資金援助を求めた。この使者には、清家が最適任者というので東京の幼友達に会うことになった。清家が東京に着くや否や、吉田町に朗報が入った。
(ヤマシタシ カイダク サンマンエンダス)という電報に有志らは歓喜の声を上げた。

 亀三郎は、母・敬に学校を見せることは出来なかったが、地元に女学校を創ることは、母への恩返しと考えていた。(子女の感化というのは、母のひざ下におる間に間違った心が入ったら、その子にどんな教育を施しても役に立つ者にはならない。子女は、母の胎内におる時からその母の血液に育てられ、生後の健康不健康は、その母の保育如何による)というのが女学校建学のポリシーだった。

内航海運新聞 2022/5/23

小林朝治著・吉田風物画帖 女学校