伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし       (家から釣りができた)

 家から釣りができたジュラ紀前より引用)

  吉田町は四国の西南部、豊後水道に面したリアス式海岸の湾内にある。対岸九州は大分県である。山また山の隙間を流れ下る細流の河口に、わずかな平地を造成して造られた。もともと葦の茂る沼地で葦田(あし、またはよしの茂る所)であったことから吉田となった。

 私の家は河口近くの川岸にあり、家の後ろ半分は水上に建っていて京都の鴨川の涼み床、南海の水上家屋の趣を呈していた。床の板張りの下は満潮時には魚たちの遊泳場となり、干潮時は干潟となる。

 昭和の10年代前半、私が物心ついたころにはまだ川獺が住んでいたらしく、床下でポチャン、シャブシャブと何かが動く水音がよく間こえた。敏捷なのか人目をうまく避け、その姿を見ることができなかったが、母が

「あっ!また川獺が来とる、ほら聞いてみなはい」

と仕事の手を休めて私によく注意をうながした。

 夏は海からの潮風が家の中をトンネルの中のように通り抜けとても涼しい。夕べはまた海へ向かう風が心地よい。よく近所の人が涼みに集まってきた。買い物客もついつい一休みしていく。米俵と格闘した父が汗取りに奥の居間へ入ってひとときの相手をする。なにしろ床下からも風が漏れ通るのである。暑さ知らずが父の自慢であった。

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 しかし難点もある、第一が台風。

川に面しているだけに風を遮るものが何もない。風雨が真正面に吹き付けてくる。普段散らかしているだけにそれらの片付け収納が大変であった。家はぐらぐら揺れるしみしみしときしむ。隣りの神社の太い松の枝が折れて飛んでくる。床板を潮水がたたく。ヒュ一ヒュ一、カタガタ、ゴトゴ卜、ミシミシと雨風による音と振動で眠れぬ夜を何度も過ごさねばならなかった。

 いま一つの難点は京都の涼み床と違い見栄えが良くないことである。

二階建ての建物が重過ぎるのか傾きかげんで、千潮時に対岸から見ると床下の杭柱と建物の柱がくの字に見えた。川に突き出ているから余計目立つ。

 だいたい家の裏手というものはがらくた置場になりやすく、いろいろな物が無秩序に散が近づくと雨戸の固定や屋外に置かれた雑貨など、散らばっていて他人には見られたくないものであるが、わが家は川に浮かぶ舟、対岸の道路に対して無防備である。いやでも応でも目についてしまう。

 対岸すぐ目の前には標高100メートルあまりの犬日城山が迫っている。その昔、砦か何かがあったのであろう、山上には礎石の名残らしい石がちらほら散在している。山塊が手ごろで薪拾いをしたり柴滑りしたり、みんなが身近に出入りできる。山じゅうが子供たちにとっては格好の遊び場であった。

この山が西日を比較的早く遮ってくれるから夏は暑さしのぎの一助にはなってくれたが、その山すそに密着して川岸に道路が通っているから、そこからわが家の裏手が手に取るように見える。

 終戦後、そのふもと河口に中学校が新築され、私はそこへ入学したから通学途上で家の裏を見ることになる。家財道具やら何やら雑多な物がむき出しになっているし、廃棄前の品物、燃料用の木切れなどが所狭しと散在しているのがよく見えた。とても鴨川の夕涼み床を連想させるような風情ではない。学校への行き帰りみんなと一緒に対岸を通るのがつらくなった。

「あれがおまえの家か」

と、尻丸出しのわが家を指さされるのが心の臓をちくちく刺した。その試練がある種の度胸を養うには役立ったかもしれないが、あまり楽しくない思い出である。

 しかし、そこは母の主戦場であった。

床の一部は炊事場と風呂場になっていて、残りのスペースは私にとって潮干狩りの戦果を整理する所、満ち潮時の釣り場となる。見掛けとは違い母と一緒の居心地の良い作業場であった。

水くみの手押しポンプにバケツやひしゃく、釣り竿や網、ゴカイ掘りのための鍬やら桶など、母と子供がいろいろがらくたを散らかし、心置きなく くつろげる場所であった。

 干潮時に干潟でゴカイやアナシヤコを捕り、潮が満ち始めるとこれを餌にして釣りを始める。ハゼやグーグーが面白いように釣れた。ハゼもグーグーも体長の割りに引きが強くたくさん釣れる。子供には手ごろで夢中にさせるに充分であった。

 (中略)

 さて、裏の川の恵みである。

釣りのメインの獲物ハゼは軽く焼いて乾かし、保存した。料理のだしに重宝された。どうしてどうしてなかなか味の良いだしが取れる。この保存ハゼに取りたて魚のだし、いわば自製調味料である。味噌も自製する家庭が多く、各家庭が独自の味を持っていた。

 春には干潮を利用してアオノリ採りしたりアサリを掘ったり、杭柱や付近の石垣に着いたカキを取ったりする。すべて自然の恵みである。

 栽培する、取る、捕る、採集する、洗ったり加工したり、煮たり焼いたり、インスタン卜食品などまだない。それに加えて掃除洗濯、着るものの仕立て、繕いなど、母の活動範囲は本当に広かった。買ったり頼んだりより自前が多い。ただ買いに行くのと違い、頭脳と手足の活動は種類も多く内容もどうしてどうしてなかなか高度である。

 特に田舎へは現今と違い変化の波が伝わるのが遅い。電気製品がドンドン普及するまでの田舎の暮らしは、明治の続き、いな維新前の続きではなかったかとさえ思ったりする。

隣りには老漁師さんとそのご子息夫妻が住んでいて、一本釣りで生計を立てておられた。

 釣りの原資は干潟で取れるゴカイやアナシヤコなどである。親子お二人で夜明け前に手漕ぎの釣り舟で出掛けられ、私の起きるころには立派な鯛の5〜6匹も釣り上げて帰ってこられた。

 あとは昼寝と漁具の手入れ、明日の用意。にこにこしながらゆったりとやっておられた。

 合間に親父さんと息子さんが交互に、しょっちゅう空をじ一と見上げて天気を占っておられた。それが私にはきわめて穏やかな静かな暮らしに見えた。米屋の喧騒とは好対照である。我が家の生活と比較して何かしらうらやましく、社会の、生活の多様さ不均一さを思った。

 ちなみにアナシヤコはシヤコではなくヤドカリの仲間だそうだ。泥っぽい干潟に数10センチ以上に及ぶ比較的深い穴を掘って住んでいる。

 まず干潟の穴の一つをぐんぐん掘って1匹を捕まえる。あとはこの1匹をおとりにして釣り上げる。

 最初に捕まえた一匹の尻尾を糸で結び他の穴に入れてやると、そこの住人がここは俺の家だぞ出て行けとばかり、爪と爪を絡ませて穴の出口まで上がってくる。糸を軽く引いてわざと負けさせ外までおびき出し、絡んだ爪が穴の外へ出た瞬間その絡んだ爪を一緒につまんで引っ張り出す。

 餌を捕るので釣りを楽しみ、この餌でまた釣りを楽しむ。生き物と人との知恵比べとはい今で和やかな風景ではないか。