簡野道明は伊予吉田の偉人  7

簡野道明と中野逍遥

  先だって簡野育英会・簡野高道理事長から頂いた、村山𠮷廣著「漢学者はいかに生きたか」は、近代日本に生きた漢学者8名の人物を描いている。その中に簡野道明と中野逍遥という郷里南予の人が取り上げられている。

二人の共通点は、伊達家元藩士の子で幼年期から漢学を習い、やがて東京に出て高等教育を受けている。

 400年前伊達家が南予に入部し、宇和島10万石、吉田3万石の城下ではレベルの高い教育が展開された。

 吉田三傑は、大正12年旧制吉田中学校を設立し、選りすぐった偉い先生をこの寒村に集めた。優秀な先生の下で教育を受けた第1期生3人が帝国大学に入学した。

ブロガーは、この本を見るまで中野逍遥のことを知らなかった。本書から一部引用させて頂く。

 

……中野逍遥は慶応三年(1867)、宇和島城下の賀古町に生まれた。名は重太郎、字は威卿、号は狂骨、逍遙、南海未覚情仙などである。幼時から秀才のほまれ高く、はじめ藩の鶴鳴学校に入り、のち漢学者山本西川に学んだ。明治12年南予中学に入学し、かたわら旧藩主伊達宗城の出資によって設けられた継志館で朱子学を修めた。明治16年、17歳の時、上京して神田駿河台の成立学舎に入り英書を学んだ。

 17年に大学予備門に進み、正岡子規夏目漱石らと知り合った。23年には東京帝国大学文科大学漢学科に入り、27年、この学科の第1回卒業生の三人中の一人として卒業した。

 27年9月に大学を卒業した逍遙はひきつづき研究科に進み、『支那文学史』を執筆、また友人田岡嶺爽、小柳司気太らと雑誌『東亜説林』を創刊した。しかし体調すぐれず肺炎となり、友人らの奔走で市内の山龍堂病院に入院したが間もなく病没した。卒業してわずか2ケ月後のことであった。享年28歳、墓は郷里に建てられ墓誌は恩師の重野成斎が撰文した。

 没後一周忌の28年11月16日に遺稿の漢詩文を集めて『逍遙遺稿』正•外二篇が出版された。友人正岡子規は「外編」巻末の「雑録」に寄せた「逍遙遺稿の後に題す」という一文で逍遙への共感を次のように記している。

 

 志士は志士を求め英雄は英雄を求め多情多恨の人は多情多恨の人を求む。逍遙子は多情多恨の人なり。多情多恨の人を求めて終に得る能はず、乃ち多情多恨の詩を作りて以て自ら慰む。天覆地載の間、尽く其詩料たらざるは無し。紅花碧月以て多情を托す可し。暖煙冷雨以て多恨を寄す可し。而して花月の多情は終に逍遙子の多情に及ばず。煙雨の多恨は終に逍遙子の多恨に若かざるなり。是に於てか逍遙子は白雲紫蓋去つて彼の帝郷に遊び以て多情多恨の人を九天九地の外に求めんとす。爾来靑鳥音を伝へず、仙跡杳として知るべからず。同窓の士、同郷の人、相議りてその遺稿を刻し以つて後世に伝へんとす。若し夫れ多情多恨逍遙子の如き者あらば、徒に此書を読んで万斛の涕涙を灑ぎ尽す莫れと爾か云ふ

    〇

春風や天上の人我を招く

いたづらに牡丹の花の崩れけり

鶴鳴いて月の都を思ふかな

世の中を恨みつくして土の霜

 

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 ブロガーは、先日、正岡子規のTV番組を録画していた。後で見ると、最近発見された子規の東京大学論理学テストの結果が映されていた。よく見ていると正岡常規の下に中野重太郎と書いている。中野の成績は1学期65、2学期69、正岡は74、82で30人中5位、因みに夏目金之助漱石)は80、90で1位だった。

 逍遙の漢詩は「古詩型の新詩才」と評されるように、近代的な恋愛感情を詠いあげ、島崎藤村ら詩人に影響を与えたという。

 宇和島市和霊公園に、「擲我百年命 換君一片情 仙階人不見 唯聴玉琴声」の詩碑がある。命日の11月16日頃、菩提寺の光圀寺に山茶花の大樹が花盛りになる。逍遥を偲ぶ人々は「山茶花忌」と呼び、集まるならわしとなっている。

 

本書は簡野道明について、佐藤文四郎の小伝を記載している。

 

……著者佐藤文四郎も「先生と著述」の項目のなかで次のように述べている。

 先生の著作は、よく読まれる。その御長逝後においても、読者が増しているという。先生が、著作に対する態度は、全く形容も出来ない程の、真剣さを持って居られた。「私は夜も寝ねずに著作するのだから、印刷所でも徹夜で、校正刷を作って呉れてもよいぢやろう」と言って、明治書院の連中を驚かせたという。著述は実に、先生の生命そのものであった。晩年、宿痾に悩まれつつも、御病牀の上で、校正される。先生は、朱筆を持つたままで、瞑目されたと、言つてもよい位であつた。周囲の者が御病気に障ることを気遣って、書物を遠ざけると、却つてそれが、御病気に障った。先生の著作は、先生の肉を分けて作られたもの、其の中に先生の血が脈々と通つていると言つてよい。だから読者の多いのは、何の不思議もないのである。

 先生の著書のすべては、全く先生御一人の手で、作られたもので、植字以外は、すべて御一人でやられたのである。先生は何回も、何回も、自身で校正せられた。

 先生の著作に対する真剣な一例としては、その著書が出来、一部が先生の許に送られると如何なる大部の物でも、その日の中に必ず丁寧に校閲されて意に満たぬ所には箋を付し、直らに出版社に送り返して次の改訂の参考とされたのである。

 好んで監修者となり自己の勢力を誇示しようとする「学界政治屋」の多いなかで道明のごときは一服の清涼剤である。彼は責任が分散することを嫌って共著も好まず、終生「単著」に徹した学者であった。

『小伝』には次のような逸話も紹介されている。

 先生がある種の本の註釈を為さうと、思ひ立たれると、数年或は十数年に亘つて、材料を蒐集して、準備される。そして一旦筆を下されると、実に神速に運ばれる。それは長い間、あの明敏な頭の中に、順序立てられてゐたものを、するすると引出されるからであつたらう。

 著書に古人の説を引用される場合は、自ら筆写されず、その本から切取つて、自分の原稿に貼付される。原本が如何に貴重な本でも平気である。「勿体ないではありませんか」と言ふと、「出来上ればこの本が、更によいものとなるから、勿体無い事はない」と言はれる。これなどは、先生が御自分の著作に対する自信の程を窺ひ知るに足る話である。