伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし     (メジカ釣り②)

メジカ釣り②ジュラ紀前より引用)

 空がすっかり明るくなり、やがて日が昇って海が青くなるころまで、ほんの1時間前後であったろうか何度かの回遊訪問を受け、舟はずっしり重くなった。

 京都のいとこたちにとっては、まさに衝撃的な経験であった。

その後、子供たちだけで何度か来た。それがきっかけで釣りが趣味になったらしい。出会うたびにその話題ばかりで、また行きたい、また行きたいと目を輝かせた。ずーと長い間いろいろな人に自慢して回ったに違いない。

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 メジカ釣りは私たちにとっても初めは感激であった。当然ながらわれわれもある人から教えてもらった。その人は復員してきたばかりの元漁師さんで、出征前から父は知っていた人だった。舟を持っていてもあまり使っていないことを聞かれたのであろう、釣りを教えてあげようと我が家に出入りされるようになり、舟をよく貸してあげた。どうせほとんど使わずに、もやっているものである。その人がお礼にといろいろ教えてくれた。メジカ釣りもその人から伝授されたものである。

 磯釣りなど一般的には先の細い竿を使うが、メジカ釣りは違う。太めで手元から竿先まで太さがあまり変わらず、ずん胴な感じの竿であった。竿先が指の太さほどもあった。ヤダケを使ったものが多かったと記憶している。

 ちなみにヤダケは真直ぐ伸び弓矢に使われるので矢竹、ヤダケという。しかしヤダケは分類上では笹である。いわゆる竹の子の皮に相当する鞘が、取れないで付いたままになっているのが笹、竹の子から成長するにつれて鞘が取れていくのが竹として分類されている。

 普段、岸からの釣りには布袋竹が重宝された。根元の節目が詰まっているうえに整然と並んでおらず、そのため竿にすると手元がむくむくとやや不規則に膨らんでいて、ちょうど握り部分がすべり止めになって具合がいい。さらにその自然の模様がなかなかおっであつた。メジカのような回遊魚は磯で遊泳している魚と違って高速で泳いでくる。それが餌にまっしぐらに矢のように突っ走ってきて食い付く。ぼんやりしていると釣り上げるどころではない。竿を握り締める間もなく引っ手繰るように持っていかれてしまう。当たりを鋭敏に感じ取るような繊細な釣りではない。引きつ引かれつの格闘をゆっくり楽しむのとは大分様子が違う。1匹にのんびり時間を掛けるようなものではない。

 群れがハイスピードでいきなりやって来て豪快に食い、引く。これを引きに負けないよう、剛直でしなりの少ない竿で食い付いたメジカが下を向いて逃げの態勢に入らないうちに、むしろ前向きのスピードをそのまま利用して、引き抜くように釣り上げる。従って先の太いずん胴で剛直な竿を使うのである。

 回遊してきた群れから、できるだけたくさん短時間で釣り上げねばならない。従って大勢が船べりに鈴なりになって釣る。竿がしなってもたもたしては糸が絡んだりしていけない。魚も敏感に感じ取って群れが逃げてしまう。

 というわけでメジカ釣りは、カツオ釣りのような豪快さ、忙しさを味わえる手ごろな釣りであった。

 さて、メジ力釣りの醍醐味を少しは理解いただけたであろう。

ここらで逆にこの醍醐味を味わうための、あるいは味わった後の、つらいところも紹介しておかないと片手落ちになる。

 当初は前述の元漁師さんが同行してくれた。そのおじさんがいなかったら、とても面白いどころではない。櫓がこげるのは、そのおじさんと次兄と私だけであった。

 クラスでいつも先頭に並んでいた小柄な私には、櫓こぎは重労働であった。小柄な私には櫓綱が長く櫓の取手は胸の位置にくる。脇を開けて腕でこぐことになる。とても脇を締めて腰でこぐなどと理想通りにはいかないのである。その図を思うと、むしろ痛々しくしか思い出せない。面白いが大幅に減点される。

近所のいとこたちには年上もいたし体格はずっといい。それがいくら練習してもうまくなれなかった。

たしかに櫓を操るのは簡単ではない。少々練習してもなかなかうまくいかないのがむしろ普通であった。大勢乗っていても特定の者だけがこぎ役を引き受けざるを得ない。いとこたちにとっては一生の良い想い出も、私にはしんどい、つらい分だけ割り引かねばならない。また行ってみたいと思わないのは、そのせいであろう。

 という訳で朝寝坊な私には早起きもさることながら、行き帰りの櫓こぎが大変つらかった。その重労働が待っているのだから面白いより行きたくないがリードする。日が昇ってくると暑さも加わり頭はがんがん痛む。1度メジカ釣りに行くと2、3日尾を引いた。

 直射日光に弱かったのであろうか、なにしろ海の真っ只中では陽を遮る物が何もない。

帽子一つでは間に合わない。帽子の中はすぐに汗びっしょりになる。その上、舟はよく揺れた。釣りに行くと頭が痛くなり、むしろもう嫌と思うことの方が多かった。

紫外線に当たり過ぎると良くないのは今では常識であろう。しかし当時は身体が鍛えられるという考え方が常識であった。海軍国の日本男児が海に弱くてどうするというのである。

 普段、釣りには父と二人で行くことが多かった。年とともに父と同行するのがつらくなった。父の方は歳を取ってきて、だんだん櫓こぎができなくなり一人では行けない。私一人でこがねばならなくなった。

 父は私が5、6歳のころから、私の体質を少しでも変えてやりたい、頑丈になってほしいという思いが強かった。釣りに行くのもその思いの現われであったようで、舟が手に入ってからは、ついて来い、つれて行けとよく強要した。

 やがて私が大学へ入学すると舟はほとんど繫がれたままになった。夏休みなどで帰郷するのを待ち構えて釣りに行きたがった。

 晚年は家でただ釣具の手入れをするだけで過ごしていた。休みが終わり上京する私を寂しそうに見送る姿が後ろ髪を引いた。その思いもあるからかどうか以後魚釣りに行きたいと思ったことはほとんどない。誘われてもいつも断っている。

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 三瀬さんの実家は浜通り魚棚3丁目か?ブロガーの本町1丁目からほんの少し離れている所、しかしメジカは知らなかった。今川鮮魚店でナマリとかいうカツオの燻製は食べた事がある。櫓櫂で行ける距離にそんな漁場があったとは驚きである。