簡野道明は伊予吉田の偉人 10(最終回)

小石川傳通院に参る

 

 道明亡き後、信衛夫人は昭和16年財団法人・簡野育英会を立ちあげ、「子どもの教育にもっとも大切なのは母親であり、その母親となる女性の教育こそ教育の根本である」という道明の遺志に基づき蒲田高等女学校を設立した。しかし戦争が激しくなる中で、昭和20年4月15日の大空襲で校舎が全焼した。老齢の信衛夫人は疎開を勧められるが「吾が身をかまっていたのでは、学校の復興はおぼつかない」と云って聞き入れなかった。だが5月29日、焼夷弾の直撃を受け殉職した。享年82歳だった。

 その後、道明の子よしが二代目理事長となり昭和22年学校を再建、昭和34年、父・道明の幼児教育の重要性に想起し、付属幼稚園を設立した。

 今では、孫の菅野高道が「学校法人・簡野育英会」の理事長として、祖父母の遺志を継いでいる。

 平成22年夏(2010)高道理事長は、教育者・道明の原点は、若き教員として過ごした愛媛の地にあると、その足跡を訪ねた。

 幼年期を過ごした吉田町では、8月19日「清・眞・勤」石碑の前で供養祭があった。史談会、教育委員会など30数名が参列した。その後、国安の郷で講演会があり、理事長は「祖父簡野道明について」を語り、名大教授の加藤先生が「簡野道明の若き日の足跡を訪ねて」のテーマで講演、約120名の町民が話を聞いたという。

 ブロガーの吉田中学同級生・秋田道子は、昭和60年図書館の開館に当たって学芸員として尽力した。この年は、国安の郷・米蔵で「簡野道明展」「歴史講座」を企画した。

 理事長は昨年、供養祭に出席する予定だったが、吉田を襲った豪雨で断念し、蒲田女子高校や学園各校・園の在校生・教職員・保護者・PTA・同窓会の有志から義援金を募り被災地へ送った。

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 ブロガーは、平成最後の月となる4月2日、桜が満開の小石川「傳通院」に参った。簡野道明翁が眠るお墓は、徳川家康の母「於大の方」墓の隣にあった。傳通院は、昔、学僧の勉学の場だったそうで、隣に淑徳女学校が建っている。道明翁の御墓は親族が来られたのか花が供えられていた。ラフな格好で申し訳ないがお参りした。

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 小石川から道明翁が住んでいた白山に向かった。途中播磨坂の桜並木を歩き、東京大学小石川植物園を見学した。道明翁かつての住所は東京市小石川区白山御殿町107番地で、現在は白山4丁目辺りと思われる。植物園脇に「御殿坂」という案内板があった。

『御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり、この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり、むかしは大坂といひしや』(改撰江戸志)

 若山牧水の和歌が添えられていた。

    植物園の松の花さへ咲くものを  

      離れてひとり棲むよみやこに

 

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     (白山・御殿坂)

  

 

 4月1日は、新元号発表の日。「令和」という万葉集から引用した漢字だった。元号の選定は漢籍古典が慣例となっていたが、初めて日本の古典が採用された。出典万葉集・梅花の歌32首の序、「初春月、気淑風、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」から、「令」と「和」。「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわ)らぎ」と、春のよい季節に、風も和らいでいるという意味。

 今では、漢学者・道明翁に聞く由もないが、漢和辞典『字源』を引くと、令月は陰暦二月、よい月とある。

            簡野道明物語 終

 

 本ブログは、令和元年5月1日にブログ本『吉田三傑2019』として自費出版する。